2009年4月27日月曜日

「怪奇!バルティ文字」の巻(2)

さて、このバルティ文字ですが、どう解読したらいいのでしょうか。

実はGrierson(ed.)(1909)にはバルティ文字列の下には同じ音・内容を記したペルシア文字が付されています。これは、バルティ文字の発見者Gustafsonが付したものです。それで音がわかります。

しかし私はペルシア文字にはうといので、正確を期すためもうワン・ステップ、ヒントをもらいたいところです。探してみると、うまいことにそれがありました。これです↓。

・Rick McGowan+Michael Everson (1999) Unicode Technical Report #3 : Early Aramaic, Balti, Kirat (Limbu), Manipuri (Meitei), and Tai Lü Scripts. pp.11.
http://std.dkuug.dk/JTC1/SC2/WG2/docs/n2042.pdf

これは、世界各地の文字にUnicodeを割り当てる会議における書類らしく、バルティ文字などにUnicodeを割り当てようか?という提案です。これは提案の段階で止まっているようで、実際にはUnicodeの割当が行われた気配はありません。

バルティ文字字母に対応するアルファベットが示されています。これでより確実にバルティ文字の音がわかります。

McGowan+Everson(1999)が挙げているバルティ文字の字母は、Grierson(ed.)(1909)から拾い出したものだけのようです。参考文献として挙げてあるのも、これと出所不明の2ページのみ。

これをまとめてペルシア文字+バルティ語専用改変ペルシア文字を加えてみると、次のような表ができます。

第1行はバルティ文字
第2行はアルファベットで示した音価
第3行はチベット文字
第4行はペルシア文字+バルティ語専用改変ペルシア文字(*で示した改変ペルシア文字は前回紹介したHussainabadi(1990)より複写)

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まず、チベット文字に対応するべきバルティ文字がだいぶ足りないことに気づきます。これは、サンプルがGrierson(ed.)(1909)の短い例文しかないためで、そこに現れない文字は存在しないことになっているわけです。

しかし実際はすべてのチベット文字に対応するバルティ文字があるはずです。現在バルティ語表記に用いられているペルシア文字+改変ペルシア文字はすべてのチベット文字に対応しているのですから。

このことからも、McGowan+Everson(1990)のUnicode割当の試みは時期尚早であることが窺えます。まずはバルティ文字による例文をもっと集めて、字母のセットを完全にする必要があるでしょう。

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これをながめていると、バルティ文字の造字原理にいくつかのパターンがあることがわかります。

(1)チベット文字を変形したもの

k、kh、c、ch、m、l、h、aiueoなどはチベット文字を裏返したり、回転させたり、簡略化したものと思われます。

一見アルファベットの「R」のように見える「l」は、チベット文字の「la」で「2」のようなものを描いた後、最後の縦棒を右ではなく、文の進行方向通り左に描いて作ったものとみられます。

「c」、「ch」、「th」、「ts」などはまずチベット文字を寝せて、それをさらに変形させたもののように見えますが、今ひとつわかりにくいです。

母音記号も「-u」はチベット文字のものと似ています。

(2)ペルシア文字を変形したもの

sh、sは明らかにペルシア文字を立てたもので、ペルシア文字に倣って「s」に「∴」のかわりに「・」をつけると「sh」になります。

母音記号の位置や形もペルシア文字の影響が強いことは明白です。

(3)チベット文字とペルシア文字を合成したもの

t、d、p、b、z、'、r。

「'」と「d」はチベット文字とペルシア文字を縦にくっつけたもの。

アルファベットの「P」に似た字母群、「t」、「p」、「b」は、まずチベット文字の「ba」の足をのばしてバルティ文字「b」を作り、その後ペルシア文字で「b」と似た形の音を選び同じ「P」のような字形を当て、点を付けたりその位置を変えたりすることで作っています。

「z」と「r」は、「β」を裏返したような形をしています。これはまずチベット文字「za」の横棒三本を一筆でつなぎ、ペルシア文字では「・」がついているので「・」をつけてバルティ文字の「z」を作っています。ペルシア文字で「z」と似た字形を持つ「r」に同じ形を当て、バルティ文字「z」から「・」を取って作っています。

(4)不明

g、ng、j、nは造字原理がよくわかりません。

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造字にはおおいにペルシア文字を参考にしていることがわかりました。よって「バルティ文字はイスラム教/ペルシア文字到来以前の文字」などとはとても言えず、「15・16世紀~20世紀初頭の間に創作された」としか言えません。

気になるのは、バルティ文字で書かれた文章が、今に至るもGustafsonが採取したこの例文一つしか報告されていないことです。

Grierson(ed.)(1909)には、「バルティ方言で書かれた古い史書がいくつか今も現ラージャーの手元にある。それらは特異な文字で書かれているが、その文字は1400年頃バルティ人がイスラム教に改宗した際に考案されたのかもしれない」とあるものの、その後バルティ文字文書の存在を聞いたことがありません。

バルティ文字は1900年頃に創作され、全然普及しなかった文字体系、という可能性すらありそうです。「Gustafsonが創作したのでは?」とまでは言いませんが、他に全く報告がないのですから、その可能性を保留しておいてもいいでしょう。

アルファベットに似た文字は、最初は「もしかするとバクトリア~エフタルあたりで用いられていたギリシア文字の流れをくむものでは?」などと考えたりもしました(注)が、それとは全く無関係であることも明らかになりました。

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もともと字形が大きく異なるチベット文字とペルシア文字をもとにしているため、字形に統一感がなく、文章になるとかなりアンバランス。奇妙かつ気持ち悪い印象を持ってしまうのも仕方ないですね。

点のあるなしやその位置が違うだけの似たような字形が多く、まぎらわしい。これはペルシア文字の伝統を引き継いでいます。

チベット文字系の字形は角張ったものが多く速記に向いているとは思えません。もしかすると筆記用の書体もあるのかもしれませんが。

こういった欠点は、文字体系としての未熟さを感じさせます。「新しく創作されたもので、実際に利用されたことはないのでは?」という疑いを持ってしまうのは、このあたりに対する疑問からです。

上記の字母表をもとに次回は例文の解読に進みましょう。

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(注)
バルティスタンにはかつて「シャカルパ(sha dkar pa=白い肌の人)」と呼ばれる人々がおり、これを「ギリシア人の末裔では?」とする説がある(確かな証拠はない)。スカルドゥのマクポン王朝は、その始祖イブラヒム・シャー(Ibrahim Shah、1200年頃)がシャカル・ギャルポ(sha dkar rgyal po)家に婿入りすることで王朝交代がなされた、と伝えられている。

現在も「シャカルパ」を名乗る家系は残っているが、容貌、言葉、伝説のいずれにおいても、ギリシア起源を裏付ける証拠はみつからないようだ。

参考:
・Ahmad Hassan Dani (1991) HISTORY OF NORTHERN AREAS OF PAKISTAN. pp.xvi+532. National Institute of Historical and Cultural Research, Islamabad.
・Abbas Kazmi (1993) The Ethnic Groups of Baltistan. IN : Charles Ramble+Martin Brauen(ed.) (1993) ANTHROPOLOGY OF TIBET AND THE HIMALAYA. pp.158-163. Ethnological Museum of the University of Zurich, Zurich.

2009年4月20日月曜日

「怪奇!バルティ文字」の巻(1)

西部チベットの話に戻りましょう。言語や文字に関する話題を少し落ち穂拾いしていきます。

まずは、チベット語分布域の最西端であり、パキスタン実効支配地域にあるバルティスタンの話です。

バルティスタン、バルティ語については 2009年2月28日 「ギィース・ルピア?」の巻 ~西部チベット語の発音(3)プリク語/バルティ語~ を参照して下さい。

チベット語の一方言であるバルティ語(sbal ti'i skad)を表記する文字として、現在はペルシア文字(アラビア文字)が使われています(注1)。これは、同じようにペルシア文字を借用しているカシミール語やウルドゥ語の文化圏と接し、その影響を受けた結果と思われます。イスラム化したことで、イスラム教用語をそのまま取り込むことができるペルシア文字利用は必然だったでしょう。

15~16世紀のイスラム教到来前はチベット仏教が信仰されていたとみられます(注2)。当時はチベット文字が使われていたはずで、チベット文字碑文も各地に残されています。

通常は「チベット文字からペルシア文字に移り変わった」とされるだけですが、その他に独自の「バルティ文字」があった「らしい」ことはあまり知られていません。

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バルティ文字に関する報告はただ一つ、

・George Abraham Grierson(ed.) (1909) LINGUISTIC SURVEY OF INDIA VOL.III TIBETO-BURMAN FAMILY PART I GENERAL INTRODUCTION, SPECIMEN OF THE TIBETAN DIALECTS, AND THE NORTHERN ASSAM GROUP. pp.xxii+621+Appendix+7. → Reprint : (1967) Motilal Banarsidas, Delhi.

だけ。これは英領インド全域にわたる言語調査報告の一巻で、同巻では西ヒマラヤと北アッサムの言語を扱っています。チベット・ビルマ系言語が中心。バルティ語も10ページにわたって取り上げられており、中でも人目を引くのがこのバルティ文字文書です。

バルティ文字による文書は、1900年ごろバルティスタンでキリスト教布教を行っていた宣教師GustafsonからGrierson(実際はS.Konowかなあ?)の手にもたらされました。

内容は、新約聖書「ヨハネの福音書」の一節をペルシア文字表記のバルティ語に翻訳し、それをさらにバルティ文字で記したものです。ですから、厳密には「バルティ文字で書かれたオリジナルの文書」とは言えません。

Gustafsonは聖書のバルティ語訳に従事していましたから、ペルシア文字表記バルティ語への翻訳を行ったのはGustafsonでいいでしょう。問題はそれをバルティ文字に変換したのは誰か?ということですが、Grierson(ed.)(1909)にはその答えはありません。バルティ人インフォーマントがペルシア文字からバルティ文字に変換してくれたのか、インフォーマントからバルティ文字を学んだGustafsonが自分でバルティ文字に変換したのか、肝心なところがわかりません。

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とにかくその例文を見てみましょう。これがその例文↓

Grierson(ed.)(1909)より複写

読み方は、各行内では右から左へ進み、行は下へと進んでいきます。

なんとも唖然とする字体が並んでいます。あるものはチベット文字のようでもあり、パスパ文字のようでもあり、シャンシュン文字印刻体のようでもあり、あるものはアラビア/ペルシア文字のようでもあり、アルファベットのようでもあり、と、形は実にヴァラエティ豊かです。

なにか悪い夢でも見ているかのような思いがしますが、オカルト屋さんが「これは宇宙人の文字」とホラを吹いたら信じる人もいそう。

いったいこれは、どこから来てどうやってできた文字なのでしょうか?次回はこの解読を試みてみましょう。

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(注1)
ペルシア文字をそのまま使っているのではなく、既存のペルシア文字では表現できないバルティ語の発音を表記するために、独自の文字をいくつか造字して加えているようだ。

チベット文字とペルシア文字+改変ペルシア文字の対応は下の表の通り。

出典は
・Mohamad Yusuf Hussainabadi (1990) BALTI ZABAN. Partially Reproduced IN : Michael Everson (2005) Proposal to Add Four Tibetan Characters for Balti to the BMP of the UCS. pp.6.
http://std.dkuug.dk/jtc1/sc2/wg2/docs/n2985.pdf

造字は、kh=k+h、ch=c+h、th=t+h、ph=p+h、tsh=ts+h、dz=d+z、zh=z+y といった簡単な組み合わせが大半だが、独特な造字法もある。ngは、nの上に「・」をもう一つ加えて作る。nyは、ng+yという造字になる。

Everson(2005)は、バルティ語独特の発音をチベット文字で表記するために、バルティスタンで試行的に創作され用いられている四文字をコードに追加しようという提案。バルティスタンでは、チベット文字を復活させようと言う動きがあリ、この提案もその流れの一環と思われる。

参考:
・Times of India > Tibetan script makes a comeback in Pakistan
28 Mar 2002, 0818 hrs IST, Siddharth Varadarajan, TNN
http://timesofindia.indiatimes.com/articleshow/5135022.cms

(注2)
イスラム化以前、バルティスタンの仏教がどのようなものであったか?その記録も、今では寺院・僧院の消滅と共にきれいさっぱり消えてしまい、すっかりわからなくなっている。

2009年4月14日火曜日

あむかす・旅のメモシリーズ 発行リスト(581~589)+旧メモシリーズ 発行リスト(01~47)

まず「あむかす・旅のメモシリーズ」の続きから。

※出版元はすべて「日本観光文化研究所・あむかす事務局」です。

581 対馬惇一 (1983/12) 『シリアへの旅』.
¥280

582 中川陽子 (1983/12) 『インド・宮殿列車の旅』.
1982年/¥420

583 千川満+加藤康樹 (不明) 『東アフリカ登山報告』.
1980年/ルーエンゾリ、キリマンジャロ/¥390

584 加藤大幸 (1984/04) 『ケニア登山GUIDE』.
1983年/¥230

585 垣口彰子 (1985/06) 『ネパール・ジョギング-私の歩き方』.
1982年/¥900

586 小松孝 (1985/06) 『谷底村の居候記-フンザ北部ワヒ族と暮らして』.
1983年/¥900

587 鈴木喜一 (1986/06) 『大陸の中に-ウイグル自治区を中心に中国旅行記』.
ウイグル自治区を中心に26日間/1985年/¥400

588 竹川和子 (1986/06) 『タンザニア』.
1984年/¥740

589 金井重 (1987/12) 『おばんひとり旅 -4年半で50ヵ国-』.
1981年9月~1987年4月/

以上でリスト終了

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続いて、「旧メモシリーズ発行リスト(01~47)」について。

「あむかす旅のメモシリーズ」刊行開始前に、その前身として存在したらしいシリーズ。全号のうち3分の2が「あむかす」版として再版されているようです。再版されていない号についてはタイトル不明(欠番の可能性もあるか?)。

刊行開始は1974年か?。1975年5月には「あむかす」版がスタートしているので、それまでの1年あまりで50冊近く発行したことになる。発行部数は少なく仲間うちでの頒布であったろうにしても、すごい勢い。熱気を感じます。

01 不明
02 伊藤幸司/アフガン~イラン バス旅行1(1973/04~06) →あむかす版No.509として再版
03 曽我礼子/北アフリカ横断旅行メモ(1967/10~11) →あむかす版No.540として再版
04 宮本千晴/パプア・ニューギニアの共通語入門1 →あむかす版No.501として再版
05 宮本千晴/パプア・ニューギニアの共通語入門2 →あむかす版No.501として再版
06 猪爪範子/ネパールからアフガン・ソ連1(1973/02~06) →あむかす版No.539として再版
07 宮本千晴/パプアニューギニア(1972/12/26~73/01/31) →あむかす版No.515として再版
08 猪爪範子/ネパールからアフガン・ソ連2(1973/02~06) →あむかす版No.539として再版
09 岡村隆/インド洋モルディブ諸島のこと(付・言葉)1(1969/06~10) →あむかす版No.520として再版
10 不明
11 野村実/アフリカ大陸・西から東へ(1972/08) →あむかす版No.538として再版
12 岡村隆/インド洋モルディブ諸島のこと(付・言葉)2(1969/06~10) →あむかす版No.520として再版
13 伊藤幸司/ビルマの旅行情報1(1971/09) →あむかす版No.522として再版
14 岡村隆/インド洋モルディブ諸島のこと(付・言葉)3(1969/06~10) →あむかす版No.520として再版
15 不明
16 不明
17 不明
18 中村誠/ボンベイからラメシュアラム・・鉄道の旅 →あむかす版No.518として再版
19 梅原芳子/韓国一周メモ(1973/08) →あむかす版No.536として再版
20 沢田久/サバ(北ボルネオ)ガイド1(1972/05) →あむかす版No.537として再版
21 不明
22 不明
23 不明
24 不明
25 伊藤幸司/アフガン~イラン バス旅行2(1973/04~06) →あむかす版No.509として再版
26 伊藤碩男/ケニア滞在メモ1(1972/07~10) →あむかす版No.531として再版
27 伊藤碩男/ケニア滞在メモ2(1972/07~10) →あむかす版No.531として再版
28 野村実/ソ連邦の旅(1969/08) →あむかす版No.532として再版
29 伊藤幸司/ビルマの旅行情報2(1971/09) →あむかす版No.522として再版
30 岡村隆/シンハリー語(スリランカ)・初歩会話入門1 →あむかす版No.517として再版
31 岡村隆/シンハリー語(スリランカ)・初歩会話入門2 →あむかす版No.517として再版
32 伊藤幸司/ビルマの旅行情報3(1971/09) →あむかす版No.522として再版
33 伊藤幸司/AMKAS・・アムカス・・あむかす(1969~74) →あむかす版No.510として再版
34 不明
35 成川順/極西モロッコ・日の沈む国(1973/10/20~2週間) →あむかす版No.535として再版
36 鈴木智子+荒川節子/韓国・在韓日本人妻を訪ねて(1973/08) →あむかす版No.534として再版
37 不明
38 不明
39 深井あきお/ロンドン・・LONDON →あむかす版No.533として再版
40 東海大学カナダ北極圏調査隊/カナダ北極圏での事故を防ぐために1(1971~72) →あむかす版No.507として再版
41 東海大学カナダ北極圏調査隊/カナダ北極圏での事故を防ぐために2(1971~72) →あむかす版No.507として再版
42 沢田久/サバ(北ボルネオ)ガイド2(1972/05) →あむかす版No.537として再版
43 不明
44 不明
45 不明
46 不明
47 宮本さゆみ/トルコからネパールまで(1974/10/09~12/17) →あむかす版No.516として再版
48 以降不明

2009年4月12日日曜日

あむかす・旅のメモシリーズ 発行リスト(561~580)

※出版元はすべて「日本観光文化研究所・あむかす事務局」です。

561 青柳清子 (1980/10) 『中南米・・・・旅のノート(その3)』.
1978年12月~79年7月/メキシコ, グァテマラ, ホンジュラス/¥930

562 三輪倫子 (不明) 『子連れ旅行のすすめ -台湾-』.
1980年8月/¥490

563 島崎君江+那須美智+藤田かよ子 (1982/12) 『わたしたちのまちがいだらけのネパール語』.
¥670

564 矢島みゆき (不明) 『トルコ』.
1980年7月~9月/¥960

565 山田りか (不明) 『小チベット ラダック旅の記』.
1980年8月/¥500

566 矢島みゆき (1981/07) 『スペイン』.
1979年12月~80年1月/¥800

567 渡辺久樹 (1981/07) 『フェゴ島』.
1980年11~12月/¥240

568 青木亜生 (1981/07) 『印度』.
1980年12月~1981年1月/¥380

569 土屋守 (不明) 『チベット語口語テキスト』.
¥670

570 樫田秀樹 (1982/03) 『サハラへの旅 -オートバイとトラックで-』.
1980年5月~10月/¥900

571 長谷川章 (1982/03) 『なんでも見てこよう スリランカ』.
1980年12月~81年1月/¥900

572 土屋守・訳 (1982/03) 『ラダック人がつくったはじめてのラダック語会話テキスト』.
¥560

573 浅野哲哉+佐尾昭典・編 (1982/04) 『「関東学生探検報告会」報告書・未知なる道(上)』.
1980年/¥700

574 浅野哲哉+佐尾昭典・編 (1982/04) 『「関東学生探検報告会」報告書・未知なる道(下)』.
1980年/¥720

575 太田順子 (1982/12) 『ビルマの紀行』.
1982年/¥280

576 鈴木喜一 (1982/12) 『建築を中心に・イベリア半島38日間』.
1981年/¥600

577 加藤大幸 (不明) 『キリマンジャロ登山GUIDE』.
¥340

578 長谷川章 (不明) 『なんでも見てこよう・ネパール』.
1979年/¥900

579 長谷川章 (1983/12) 『なんでも見てこよう・ヨーロッパ』.
1978年/¥900

580 安木宏明 (1983/12) 『西アフリカ440日』.
サハラを越えマグレブを抜ける/1981-82年/¥640

2009年4月9日木曜日

あむかす・旅のメモシリーズ 発行リスト(541~560)

※出版元はすべて「日本観光文化研究所・あむかす事務局」です。

541 佐藤活朗 (不明) 『東アフリカ・・ケニア・ウガンダ』.
1977年7~9月/¥280

542 矢島みゆき (不明) 『ネパール』.
1977年12月26日~78年1月8日/¥440

543 矢島みゆき (不明) 『アフガニスタン』.
1976年8月1日~23日/¥390

544 矢島みゆき (不明) 『アフリカ』.
1975年7月18日~8月29日/¥330

545 山部悦則 (不明) 『アフリカの旅』.
1976年8月19日~77年1月30日/アルジェリアからケニアへ15000 km/¥530

546 三輪主彦 (1978/09) 『メソポタミアの旅』.
1977年12月~78年1月/シリア, ヨルダン, イラク/¥540

547 平田昌彦 (不明) 『トルコ』.
1977年4月~5月/トルコ観光局パンフレットによるトルコ案内/¥610

548 内藤邦男 (1979/02) 『AUSTRALIA』.
1978年7月21日~9月12日/バスにヒッチハイクを添えて、17070 km/付、学割情報/¥750

549 榎本福夫 (不明) 『印度 : INDIA : ばらっと』.
1976年6月30日~1977年3月31日/カルカッタ270日/¥360

550 角政美 (不明) 『遙かなるペルー』.
1978年7月~8月/¥450

551 矢島みゆき (不明) 『ミラノ』.
1978年9月20日~1979年1月20日/¥890

552 高須賀佳文 (不明) 『イギリス滞在記』.
1977年6月~1978年6月/¥540

553 三輪主彦 (不明) 『アナトリアの高原から PART 1・・カタコト・トルコ語修業』.
1978年12月~79年7月/¥540

554 三輪主彦 (1979/09) 『アナトリアの高原から PART 2・・アナトリア通信』.
¥440

555 矢島みゆき (不明) 『北アフリカ No.1』.
1979年8月/チュニジア・アルジェリア・モロッコ/¥640

556 矢島みゆき (1979/11) 『ナポリ~ポンペイ~チステルニーノ』.
1978年12月~79年1月/¥400

557 浅野哲哉・編 (不明) 『「全国学生探検報告会」報告書』.
1978年12月2日~4日/知られざる探検・冒険の記録/¥850

558 横井誠一 (不明) 『ソ連邦ひとり旅』.
1978年11月~12月/バイカル号・シベリア・中央アジア/¥540

559 青柳清子 (1980/10) 『中南米・・・・旅のノート(その1)』.
1978年12月~79年7月/ペルー南部, ボリビア, ブラジル/¥930

560 青柳清子 (1980/10) 『中南米・・・・旅のノート(その2)』.
1978年12月~79年7月/ペルー北部, エクアドル, コロンビア/¥680

2009年4月7日火曜日

あむかす・旅のメモシリーズ 発行リスト(521~540)

※出版元はすべて「日本観光文化研究所・あむかす事務局」です。

521 佐藤芳夫 (不明) 『アンデス・トレッキング(ペルー・アンデス北部編)』. pp.61.
¥350

522 伊藤幸司 (不明) 『ビルマの旅行情報』. pp.111.
1971年9月の情報/メモ・シリーズ No,13, No.29, No.32の再版/¥600

523 土屋芳久 (不明) 『メキシコ・・・・76』. pp.70.
1976年5~7月/¥400

524 土屋芳久 (不明) 『グアテマラ・・・・76』. pp.49.
1976年5~7月/¥300

525 松野みゆき (1977/12) 『ユーラシア東進(パリ~バンコク)』. pp.23.
1977年2~4月/¥200

526 矢島みゆき (1977/12) 『イラン』. pp.142.
1977年7~8月/¥750

527 矢島みゆき (1977/12) 『インドで』. pp.145.
デリー~ボンベイ~ブローチ~アーメダバード~デリー/1976年12月24日~77年1月8日/¥750

528 鴫原悦子 (不明) 『チチカカの湖畔にて(アンデスのフィールドノート)』. pp.114.
¥650

529 平田昌彦 (1981/03) 『アフリカ独り西から東へ』.
モロッコ~モーリタニア~セネガル~マリ~ニジェール~オートボルタ~コートディボアール~トーゴ~ナイジェリア~カメルーン~チャド~スーダン~エジプト/1976年10月, 77年1~4月/¥500

530 著者名なし (不明) 『1976全国学生探検会議・報告書』.
1976年12月におこなわれた会議のまとめ/¥450

531 伊藤碩男 (不明) 『ケニア滞在メモ』.
1972年7~10月/メモシリーズ No.26, No.27の再版/¥220

532 野村実 (不明) 『ソ連邦の旅』.
1969年8月/インツーリストの指示に従った行儀のよい観光旅行/メモシリーズNo.28の再版/¥220

533 深井あきお (1978/04) 『ロンドン・・LONDON』.
ロンドンの見もの/特に演劇, 音楽, スポーツのジャンル別紹介/メモシリーズ No.39の再版/¥220

534 鈴木智子+荒川節子 (1978/04) 『韓国・在韓日本婦人を訪ねて』.
1973年8月の行動報告/メモシリーズ No.36の再版/¥230

535 成川順 (不明) 『極西モロッコ・日の沈む国』.
1973年10月20日から2週間の紀行文風レポート/メモシリーズ No.35の再版/¥220

536 梅原芳子 (1978/04) 『韓国一周旅行メモ』.
1973年8月/女性ふたりの気楽な旅、安い旅/メモシリーズ No.19の再版/¥220

537 沢田久 (不明) 『サバ(北ボルネオ)ガイド』.
1972年5月/メモシリーズ No.20, No.42の再版/¥230

538 野村実 (不明) 『アフリカ大陸・西から東へ』.
ナイジェリア~ニジェール~マリ~カメルーン~ザイール~タンザニア/1972年8月/メモシリーズ No.11の再版/¥220

539 猪爪範子 (1978/04) 『ネパールからアフガン・ソ連』.
1973年2~6月/はじめての旅・ひとり旅/メモシリーズ No.6, No.8の再版/¥280

540 曽我礼子 (不明) 『北アフリカ横断旅行メモ』.
1967年10~11月/女ふたりでスペインからエジプト/メモシリーズ No.3の再版/¥220

2009年4月4日土曜日

あむかす・旅のメモシリーズ 発行リスト(501~520)

※出版元はすべて「日本観光文化研究所・あむかす事務局」です。

501 宮本千晴 (1975/11) 『パプア・ニューギニアの共通語入門』. pp.113.
ネオ・メラネシア語約1000語/メモシリーズ No.4 No.5の再版/¥500

502 木村一雄 (1979/05) 『カラコルム・トレッキング』. pp.29.
ギルギットからフンザへ/¥200

503 井関隆善 (1979/05) 『ヨーロッパ・東アフリカ9ヵ国(ヨーロッパ編)』. pp.73.
フランス スペインイタリアスイス オーストリア ギリシャ モロッコ/1974年6~8月/¥400

504 井関隆善 (1980/05) 『ヨーロッパ・東アフリカ9ヵ国(東アフリカ編)』. pp.37.
ケニア タンザニア/1974年6~8月/¥250

505 賀曽利隆 (不明) 『ぼくのオーストラリア・・二周と二半周(その1)』. pp.49.
ヒッチハイクでまず一周/1973年9月24日~11月2日/31日間 17,464km 88台 約40米ドル/¥300

506 松崎孝男 (不明) 『あるサラリーマンのひとり旅 はじめての海外旅行・2週間』. pp.66.
パリ~ロンドン~スコットランド/1975年4月22日~5月4日/¥400

507 東海大学カナダ北極圏調査隊 (1976/12) 『カナダ北極圏での事故を防ぐために』. pp.120.
1971~72年遭難の原因を探る/メモシリーズNo.40 No.41の再販/著者の希望により頒布は具体的な計画をもつひとに限ります/¥650

508 土屋芳久 (不明) 『インド北部とネパール』. pp.37.
1975年12月~76年2月/¥250

509 伊藤幸司 (1980/05) 『アフガン~イラン バス旅行』. pp.50.
1973年4~6月/メモシリーズ No.2 No.25の再版/¥400

510 伊藤幸司 (不明) 『AMKAS・・アムカス・・あむかす』. pp.85.
1969年から1974年までのうごき/メモシリーズ No.33の再版/¥250

511 深井あきお (1981/03) 『かたことウルドゥ語』. pp.52.
¥300

512 増井外志 (1976/12) 『カナダ亜北極圏 ・・ カヌー旅行とチエプワン族』. pp.42.
1975年5~9月/¥250

513 賀曽利隆 (不明) 『ぼくのオーストラリア ・・二周と二半周(その2)』.
1973年9月24日~12月13日/¥250

514 伊地知隆 (1979/05) 『イスタンブール~カトマンズ』.
1974年3~5月/¥400

515 宮本千晴 (1977/06) 『パプアニューギニア』.
1972年12月26日~73年1月31日/アムカス探検学校で、女性ふたりと山歩き/メモシリーズ No.7の再版/¥200

516 宮本さゆみ (1979/05) 『トルコからネパールまで』.
1974年10月9日~12月17日/女性ふたり・はじめての旅/メモシリーズ No.47の再版/¥200

517 岡村隆 (不明) 『シンハリー語(スリランカ)・初歩会話入門』.
メモシリーズ No.30 No.31の再版/¥450

518 岡村隆 (1980/05) 『ボンベイからラメシュアラム・・鉄道の旅』.
メモシリーズ No.18の再版/¥200

519 中村誠 (不明) 『ネパールからインド・アフガンの旅』.
1976年2月23日~4月13日/¥250

520 岡村隆 (不明) 『インド洋モルディブ諸島のこと(付・言葉)』.
1969年6~10月の現地滞在による/メモシリーズ No.9 No.12 No.14の再版/¥600

あむかす・旅のメモシリーズ 発行リスト(その前に)

チベット関連の話はちょっとお休みして、しばらくはこの話題で。

以前、土屋守・訳『あむかす・旅のメモシリーズ no.572 ラダック人が作ったはじめてのラダック語会話テキスト』を紹介しましたが、同シリーズの全タイトルが判明したので、リストアップしようかと思っています(これを待ち望んでいる人は日本中で数人程度でしょうが)。

同シリーズの各号巻末には既刊リストが載っており、これから貼りつけるリストはほとんどそれを転載しただけです。no.501~572についてはno.572『ラダック語会話テキスト』巻末より。no.573~589についてはno.589『おばんひとり旅』巻末より。

発行年月は、国会図書館OPAC登録の書誌より。よって国会図書館に所蔵されていない号については発行年月は不明です。ページ数は巻末リストに記述があったもののみ記しました。

私自身は「あむかす」とは何の関係もなく、旅行で同シリーズを利用したことすらありません(「地球の歩き方」や「ロンプラ」がすでにあった)。その存在を意識するようになったのは『ラダック語会話テキスト』をきっかけとしたもので、それもほんの数年前のことです。

シリーズの全タイトルを調べたくなった発端は、「あむかす」とも関係が深い「あるく・みる・きく」誌(注1)で二度も取り上げられている「カラーシャ」(注2)に関する号があるかも?と思ってことでした。が、「カラーシャ」号はありませんでした(注3)。残念。

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本来この内容は、こんな場所ではなく「あむかす」関係者のサイトに置いておくのが筋でしょう。私に著作権が発生するわけもなく、むしろ著作権は「あむかす」にあるわけですから、関係者の方がこの内容を丸々コピペして転載するのは自由です。ただし入力に手間はかかっているので、協力者として本サイトを明記しておいて下さい。

主な著者の経歴・他の著書などを含んだ注釈も作ろうか、と考えましたが、意外に大仕事になることが判明したので、早々に諦めました。というより、その仕事には私よりもっと適任の方がいるでしょうね。

なお、各巻の内容や「あむかす」の内部事情などについては、当方はこれ以上何も知らないので、こちらに質問を寄せられてもお答えできる能力はありません。

では次エントリーよりリストを貼っていきます。

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(注1)
「あるく・みる・きく」誌は、近畿日本ツーリスト・日本観光文化研究所(初代所長は宮本常一)により1967年3月~1988年12月にわたり刊行されていた月刊誌。通巻263号。

旅を通じて各地の文化を知り紹介する目的で刊行されていた。近畿日本ツーリストの広報誌を兼ねており、そのせいか市販はごく限られたルートのみだったらしい。

宮本氏の興味を強く反映した内容で、特集の大半は日本の民衆伝統文化を訪ねるものだった。年に一・二度海外特集もあり、カラーシャやラダックなど当時としては珍しい行先が取り上げられることもあった。

私は国会図書館で一部を閲覧したことがあるだけだが、埋もれたままでは惜しい記事がかなりある。復刻版を作ろうという動きもあるようだ。

参考:
・民家雑文 > 『あるく みる きく 31号』 2007年07月14日
http://blog.goo.ne.jp/runarunanotabi620/e/2f5cac75eec9dcbaefb355e1f1768530
・(ホーム不明) > 編集ページ > 06年8月31日付け 中国新聞文化面から
http://www.d3.dion.ne.jp/~shouji/sub103.htm

(注2)
パキスタン北西辺境州に住む非ムスリム(カーフィル)の民族Kalash(カラーシュ)人。アレクサンドロス大王軍兵士の末裔という「俗説」で有名。

Kalasha(カラーシャ)という表記は所有格で、「カラーシュ人」、「カラーシュ語」などを意味する。よって「カラーシャ人」、「カラーシャ語」という表記は正しくはない。しかし単に「カラーシャ」という表記だと「人」だか「語」だか不明な場合もあるので、「カラーシャ人」、「カラーシャ語」という表記もありかな、とも思う。「ヒンディ語」という表記も正しくはないが、同様な理由でか、なしくずしに許容されているようだし。

(注3)
カラーシャに関する邦文書誌もだいぶ前に作ってあるので、機会をみてご紹介しましょう。

2009年4月2日木曜日

「スピティ?ピティ?」の巻 ~西部チベット語の発音(7)スピティ語・ニャム語~

ラーホールからクンゾム・ラ(kun 'dzom la)を越えるとスピティ(spi ti/spyi ti)です。「スピティ/Spiti」という表記が一般的ですが、地元では語頭の「s-」はほとんど発音されず「ピティ」という音になります(注1)。

前に説明した「ザンスカール」同様、「スピティ/Spiti」という発音も自称というよりはラダック側からの呼び名であろう、と推測できます。スピティは17~19世紀にはおおむねラダック領でした。

地元の呼び名を重視すれば「ピティ」と表記するのが適当ですが、一般に「スピティ/Spiti」という表記が広まっている上に、行政上の正式表記も「Spiti」になっていることから、ここでは「スピティ/Spiti」で通します。

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スピティに入ると風景もそうですが、人の顔や言葉はもうすっかり西チベットそのものです(注2)。これまで見たインド側西部チベットの人々の顔には多少なりともコーカソイドの雰囲気がありましたが、スピティパは完全にチベット顔です。


スピティの人々@ラルン

言葉(spi ti'i skad)も限りなくンガリー方言(ウー・ツァン方言)に近づきますが、単語や言い回しはラーホール・トゥー語同様ラダック語の影響がまだみられます(注3)。そういった意味では「中央方言」や「西部古方言」のどちらかに入れてしまうのではなく、「西部改新的方言」という区分を立てるのは妥当な線だろうと感じます。

「これ」=「'i(イ)」。
「これはなんですか?」=「'i ci yin na' ?(イ・チ・イン・ナ?)」
「~はいくらですか?」=「~ rin tsam yin ?(~・リン・ツァム・イン?)」。
「祖父」=「me me(メメ)」。
「祖母」=「a bi(アビ)」
などはザンスカール語/トゥー語と同様、ラダック語的な単語・言い回しですが、

「ありがとう」=「thugs rje che(トゥジェチェ)」
「良い」=「yag po(ヤクポ)」
などチベット語ウー・ツァン方言らしい言い回しも出てきます。

「猿」=「spre'u(テ)」
「数字の2」=「gnyis(ニィー)」
「米」=「'bras(デー)」
などももうチベット語ウー・ツァン方言とすっかり同じ発音です。

ラダック語の万能挨拶「ジュレー」はスピティでも使われますが、利用頻度はだいぶ少なくなってきます。

語頭の「s-」、語尾の「-s」が発声される単語ももうほとんどありません。それは「spi ti」が「ピティ」と発音されていることでもわかりますね。

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スピティ川を下りキナウル(Kinnaur/khu nu、注4)に入ってもしばらくはチベット系の人々が住む地域が続きます。スピティ川の最下流域、サトレジ川と合流するまでの地域をハンラン(Hangrang/hrang trang)谷と呼びます。グゲ時代の古刹ナコ(Nako/na ko)寺を含む地域です。さらにサトレジ川流域に入りプー(Puh/spu)あたりまでを総称して上キナウル(Upper Kinnaur)と呼びます。

このあたりのチベット語を「ニャム語(mnyam skad)」といいます(注5)。プーを過ぎてロパ(Ropa/ro pag)谷が合流するあたりからキナウル語(hom skad)圏が始まります(キナウル語圏内でもチベット仏教がさかんな場所ではチベット語が通じる)。

ニャム語分布域の方はサトレジ川流域を少し離れて、チベットとの国境沿いに南に伸び、ネサン(Nesang)、そしてテドン谷(Tedong Gad)最上流のクヌ(Kunu/ku nu)~チャラン(Charang/rtsa rang/tsha rang)に続いています。

このニャム語については、聞き取りを行って一通り会話帳を作ってみたところ(注6)、これといってスピティ語との違いがわかりませんでした。つまり、ラダック語の影響はあるものの、発音は限りなくンガリー方言(ウー・ツァン方言)に近いチベット語です。

上キナウルのおじさん(バカボンのパパ?)

ラーホール~スピティ間のように高い山に隔てられているわけでもなく、スピティ~キナウル間はスピティ川沿いに通行も容易ですから、言葉がほぼ同じなのも当たり前といえば当たり前です。

上キナウルは1630年まではグゲ領、その後50年間はラダック領、17世紀末からブシェール王国領となります。しかし隣接しているンガリーとの交易は盛んで、今のように国境が閉鎖されていたわけでもありませんから、当然ンガリー方言の影響も強くなります(それはスピティも同様です)。

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国境を東に越えるとそこは現・中国領チベット、ンガリーの西部です。このあたりはロンチュン(rong chung)とかチョクラ(lcog la)とか呼ばれていました(注7)。なかなか外国人の入域は難しい場所で、また言語学調査にとっても全くの空白域です。

ンガリー方言の一種が話されているのだろうと推測されますが、ンガリー方言内での位置づけやスピティ語/ニャム語とどういう違いがあるのか、興味のあるところではあります。

2009年3月13日「ザンスカール・ゴ・スム」の巻 でも紹介した

・Institute of Linguistics, University of Bern : The Tibetan Dialects Project
http://www.isw2.unibe.ch/tibet/Dialects.htm

にちょっと興味深い記述がありました。

┌┌┌┌┌ 以下、上記サイトより ┐┐┐┐┐

WIT Western Innovative Tibetan
-Ladakhi dialects of Upper Ladakh and Zanskar (India)
-North West Indian Border Area dialects: Lahul, Spiti, Uttarakhand (India)
Ngari dialects: Tholing (Tibet Aut. Region: Ngari Area)

CT Central Tibetan
Ngari dialects (Tibet Aut. Region: Ngari Area)-Northern Nepalese Border Area dialects (Nepal)
-Tsang dialects (Tibet Aut. Region: Shigatse Area)
-U dialects (Tibet Aut. Region: Lhoka Area, Lhasa municipality)

└└└└└ 以上、上記サイトより ┘┘┘┘┘

と、ンガリー方言の中でもトリン方言(すなわちツァンダ方言)だけを他のンガリー方言(ウー・ツァン方言のグループ)から切り離して、スピティ語などと同じ「西部改新的方言」に加えています。

このウェブサイトだけではその根拠は不明ですが、スピティや上キナウルは1630年以前はグゲ王国領であり、今よりもずっとンガリーと結びつきが強かったことが思い出されます。

そうなると、ツァンダとスピティ/上キナウルの間に位置するロンチュンの言葉は、ますますスピティ語/ニャム語に近い言葉と推測されるわけですが、とにかく誰かが一度調べないことには話は始まらないでしょうね。

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スピティ語のグループ「西部改新的方言」にはあと二つほど仲間がいます。ンガリーからヒマラヤを南に越えたウッタルアンチャル(Uttaranchal)州北部のジャド(Jad)語とガルワール(Garhwal)・チベット語です。私はこの地域には行ったことがなく、両言語の内容ついても知りませんから、位置や状況に簡単に触れるだけにします。

ジャド語は、ンガリーの南西部サラン(za rangs/薩譲)からタガ・ラでヒマラヤを越えたネラン(Nelang)周辺の言葉。ガンゴトリー(Gangotri)のすぐ近くです。ここはヒマラヤの南側ながら、かつてはチベットの勢力下にありましたが、今はインドが実効支配しています。中国も領有を主張しているため、国境未確定地域とされています。

ガルワール・チベット語は、ンガリーの中心地ツァンダから真南にマナ・ラ(Mana La)を越えたマナ(Mana)周辺と、ニティ・ラ(Niti La)を越えたニティ(Niti)周辺の言葉です。バドリーナート(Badrinath)やジョシーマト(Joshimath)の上手に当たります。彼らはマルチャ(Marcha)と呼ばれているので、言葉も「マルチャ語」と呼んだ方がいいかもしれません。この地域も国境閉鎖前はチベット側との交易が盛んでした。ただしマルチャたち自身はチベット起源ではない、と主張している、という話も聞きます(注8)。

双方ンガリーに隣接した地域で、スピティ語/ニャム語同様きわめてンガリー方言に近い言葉と推測されます。両言語に関する研究は、

・Deva Datta Sharma (1990) TIBETO - HIMALAYAN LANGUAGES OF UTTARAKHAND (PART II). Mittal Publications, Delhi.

で発表されているようです(未見)。

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これでようやく西部チベット語を一通り見終わったわけですが、ひとことで西部チベット語と言っても多彩なヴァリエーションがあることがおわかりいただけたかと思います。

なにゆえ言語の違いにこだわっているかというと、第一には言語を習得して地元の人々と交流を図りたいから、というのはもちろんですが、それに加え私の場合は言語に歴史を観ているからでもあります。

一般に歴史を調べるという作業は、文字史料の解読が中心になるわけですが、その他にも有形・無形の素材はたくさんあります。人々の顔、口伝、民族衣装、習俗、民家建築、寺の宗派・建築・美術などなど、そのいずれにも歴史が秘められています。言語もそういった無形の資料の一つとしてとらえることができます。

ラサから遠く離れたンガリーの言葉が、お隣のラダック語とはだいぶ異なるウー・ツァン方言であるのはなぜなのか?なぜラダック~バルティスタンに古いチベット語の発音が残っているのか?ザンスカール語がラダック~プリクよりもラーホール~スピティに近いのはなぜなのか?そして、チベット系言語に囲まれてダー・ハヌーにシナー語の孤島があるのはなぜなのか?などなど。

こういった言語地理から歴史的な背景を探る話も今後していく予定です。

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さて、またヒマーチャル・プラデシュ州に戻りますが、トゥー語/スピティ語/ニャム語の外側(インド側)には、ヒマラヤ諸語を話す人々の豊穣なる世界(ラーホール/マラーナー/キナウル)が広がっているのですが、これに手をつけると話題はシャンシュン王国やらタカリーやら羌まで広がっていき、いつ終わるとも知れない話に突入してしまうので、今はやめておきます。

とりあえずこれで一連の西部チベット語の話は終わりですが、このあといくつか落ち穂拾いもしておきましょう。

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(注1)
この地域の名が史料に初めて現れるのは、クッルー王国の王統記(Vamsavali)。7世紀前半頃にクッルー王国と領土争いをし、一時はクッルーを属国としていた他国の王として「Piti Thakur」の名が現れる。紛争地がクッルー北部山岳地帯であることから、Piti Thakurは現在のスピティを本拠地としチャンドラー谷を経由してクッルーにちょっかいを出していた、とみる説が一般的(だが確実な証拠はない)。当時から発音は「ピティ」だったようだ。

チベット側の史料では、吐蕃時代の地名として西部チベットのどこかに「ci di/spyi ti」という地名があったことが知られているが、現在のスピティのことかどうかわからない(山口1983説では「カイラーサ山の北側」とする)。

グゲ王国時代(10世紀以降)になって、その領土の一部として、現在のスピティ(spi ti/spyi ti)がはっきりと姿を現す。

参考文献 :
・J. Hutchison+J. Vogel (1933) HISTORY OF THE PANJAB HILL STATES, VOLUME I + II. pp.729+xiii. Lahore. → Reprint : (1999) Low Price Publications, Delhi.
・Giuseppe Tucci (1956) PRELIMINARY REPORT ON TWO SCIENTIFIC EXPEDITION IN NEPAL. pp.viii+153+figs. IsMEO, Roma.
・山口瑞鳳(1983)『吐蕃王国成立史研究』. pp.xxviii+915+60. 岩波書店, 東京.
・Roberto Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG. pp.xi+642. Dharamsala.
・V. Verma (1997) SPITI : A BUDDHIST LAND IN WESTERN HIMALAYA. pp.vii+176+pls. B.R. Publishing, Delhi.
・岩尾一史 (2000) 吐蕃のルと千戸. 東洋史研究, vol.59, no.3[2000/12], pp.605-573.
・Tobdan (2000) KULLU : A STUDY IN HISTORY (FROM THE EARLIEST TO AD 1900). pp.126+pls.XVI. Book India Publishing, Delhi.

(注2)
谷沿いには湖でできた地層があちこちに残っていてちょっとグゲ的な風景。カザ背後の高原へ行くとヤクもいて、ますますチベット的な空気になってくる。

(注3)
今回も私が現地で採取した発音に加え、一部下記の資料からも引いています。

・Deva Datta Sharma (1992) TRIBAL LANGUAGES OF HIMACHAL PRADESH (PART-TWO). pp.xxi+404. Mittal Publications, Delhi. (スピティとキナウルとマラーナーの言語を扱う巻、ただしキナウル語を除く)

これはスピティ語に関する唯一の本格的な研究。

(注4)
Kinnaurは現代のDevanagari表記では、

その通り読むと「キンノール」となるが、古くはKanawar/Kunavar/Koonawurなどと音写されているので、この音を尊重してこのblogでは「キナウル」と呼ぶことにする。キナウル語を研究している愛知県立大学・高橋慶治先生も「キナウル」を使っている。

「キナウル」という地名とインド神話の尊格「Kimnara」は関係あるのか?という話はいずれまた。

(注5)
「mnyam」とは「同じ」とか「平等な」などの意味だが、なぜ上キナウルのチベット語が「平等なる言葉(mnyam skad)」と呼ばれているのか、由来は不明。

ニャム語に関しても、前述のSharma(1992)が唯一の本格的な研究書。

(注6)
ニャム語だけではなく、スピティ語、トゥー語、ラーホールのヒマラヤ諸語系三言語、マラーナーのカナシ語、キナウル語とすべて会話帳が完成していたのですが、ガイドブックの企画丸ごとボツになったため、陽の目を見ていないわけです。

(注7)
チョクラは上キナウルのハンラン谷なども含む地域をさすのではないかとみられ、ロンチュンの範囲とは若干ずれているかもしれない。チョクラはピチョク(pi cog)、スピティ(spi ti)と併記されていることが多く、ピチョクは下スピティ(タボあたり)を、スピティは今のスピティのうちでも中スピティ(カザ~キーあたり)~上スピティ(ハンサ~ロサルあたり)を指すのではないか、とみられる。

(注8)
この他、ウッタルアンチャル州には「Bhotiya」と総称されるモンゴロイドの民族(ランパ、チャウダンシ、ビャンシなど)が住んでおり、かつてはその名の通りチベット系民族として扱われてきたが、現在では、ヒマラヤ諸語(キナウル語などと同じグループ)を話す民族であり、チベット起源の人々ではない、ことが明らかとなっている。