2009年7月21日火曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(9) ニンマパ経典のブルシャ語タイトル

この経典は「ブルシャ文字(bru zha'i yi ge)」で書かれていたといいますから、ブルシャに文字はあったはずです。インド由来のカローシュティー文字、ブラーフミー文字、グプタ文字などが存在したことは碑文や発掘経典で知られています。

しかしわざわざ「ブルシャ文字」と書くのですから、それとは別の文字があったという可能性が高そうです。もしかすると、それが「チベット文字ドゥツァ体」もしくはその原型ではなかったのだろうか?というのが私の仮説です。

『一切仏集密意経』はブルツァ体、もしくはその原型で記されており、その文字がチベット語に翻訳された経典と共に(あるいはブルシャ語経典も)チベットに伝わったのかもしれません。しかし、そういう記録が残っていないので謎のままです。

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「ブルシャ文字」で記されていたこの経典、大もとの言語はサンスクリット語だったといいます。それを前述の三人の訳経師(lo tsa ba)がブルシャ語に翻訳した上で、さらにチベット語に翻訳したようです。「ブルシャ文字(bru sha'i yi ge)」には、「ブルシャ語」という意味も込められていると思われます。

残念ながらこの経典のブルシャ語版は伝わっていません。しかし、そのブルシャ語タイトルのみは現在まで伝わっているのです。

この経典の冒頭には、チベット語タイトルに加え、サンスクリット語タイトル(サンスクリット文字表記をチベット文字で転写したもの)、そしてブルシャ語タイトル(ブルシャ文字表記をチベット文字で転写したもの)の三つが付されています。

チベット語タイトルは前回挙げたので省略します。

(1)サンスクリット語タイトル

rgya gar skad du(インド語では)
sa rba ta tha' ga ta tsi ta ta dznya' na gu hya a rtha ga rbha byu' ha ba dzra tan tra sid dhi yo ga a' ga ma sa ma' dza sa rba bi dya' su tra ma ha' ya' na a bhi sa ma ya dha rma' pa rya ya bi byu' ha na ma su' traM

これをよりわかりやすくサンスクリット文字アルファベット転写に準じた方式で表すとこうなります。

Sarva tathāgata cittajñāna guhyārtha garbha vyūha vajra tantra siddhi yogāgama samāja sarvavidyāsūtra mahāyānābhisamaya dharma paryāya vivyūha nāma sūtram

(2)ブルシャ語タイトル

問題のブルシャ語タイトルですが、五資料を当たってみたところ、なんと全部つづりが違います(笑)。困ったもんです。

全部あげておきますが、相違点を赤字青字で示しました。赤字は少数派、青字が多数派です。かといって「青字が正しく、赤字は誤り」と考えているわけではありません。目安としてあげただけです。

bru zha'i skad du(ブルシャ語では)
<1>大谷大学説-『北京版大蔵経』より
hon ban ril til bi bu bi til ti ta sing 'un 'ub had bad ril 'ub bi su bad ri zhe hal ba'i ma kyad ku'i dang rod ti
<2>東北大学説-『デルゲ版大蔵経』より
hon pan ril til pi bu pi til ti ta sid 'un 'ub hang pad ril 'ub bi su bad ri zhe hal pa'i ma kyang ku'i dang rong ti
<3>Poucha説-『デルゲ版大蔵経』より
ho na pan ril til pi bu pi til ti ta sid 'un 'ub hang pang ril 'ub bi su bad ri zhe hal pa'i ma kyang ku'i dang rong ti
<4>金子英一説-『古タントラ全集』より
hon pan rol til pipu pitila titasing, 'un 'ub, hang pang ril, 'ub pa'i su, bang ri zhe hal pa'i ma kyang ku'i, dang rod ti
<5>ケント大学説-『古タントラ全集』より
hon pan ril til / pi pu / pi ti la / ti ta sid / 'un 'ub / hang pang ril / 'ub pa'i su / bad ri / zhe hal pa'i / ma kyang ku'i / dang rod ti

出典は、
<1>大谷大学図書館・編(1939) 『大谷大学図書館蔵 西蔵大蔵経 甘殊爾勘同目録 I』. pp.177. 大谷大学図書館, 京都.
<2>東北帝国大学法文学部・編, (財)斎藤報恩会・補助 (1970) 『西蔵大蔵経総目録』. pp.2+701+124. 名著出版, 東京.
<3>Pavel Poucha (1960) Bruža - Burušaski ?. Central Asiatic Journal, vol.5, no.4[1960], pp.295-300.
<4>金子英一(1982) 『古タントラ全集解題目録』. pp.68+496+23. 国書刊行会, 東京.
<5>Tibetan Studies at the University of Kent at Canterbury > The Rig 'dzin Tshe dbang nor bu Edition of the rNying ma'i rgyud 'bum > Catalogue > Volume Da > Da.1
http://ngb.csac.anthropology.ac.uk/csac/NGB/da/1

筆者がチベット文字表記でこのタイトルを見ているのは、

・大谷大学・監修, 西蔵大蔵経研究会・編 (1956) 『影印北京版西蔵大蔵経 9 甘殊爾 秘密部 九』. pp.277. 東京学術社, 東京.

のみです。当然私自身の釈字は<1>に近いものになります。

『影印北京版』は縮刷版でもあるので、一般に印刷が不鮮明な箇所が多く、ツェグの判別が難しい、paとbaの区別がしにくい、ngaとdaの区別がしにくい(これはこの版に限ったことではないが)、などの欠点があります。よって<1>大谷大学説の他説との差異は主にそこに現れています。他の読みとの相違点が一番多いので、この釈字の信頼度は低い、とは考えています。

それにしても、同じ資料(版は違うかもしれないが)を見ているはずの<2>と<3>、<4>と<5>の間ですら釈字にこれだけ違いがあるのですから、出発点からして思いやられます。

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先に進む前に、すべての経本を比較してできるだけ正確なスペルをまず得るべきでしょうが、私にはそこまでできる能力がありません。なにしろ同じ『デルゲ版』同士や『古タントラ全集』同士ですら釈字が違うのですから、専門家にとってもかなりの難物のはずです。

チベット人にとってもブルシャ語は意味不明ですから、この無意味な字の連なりは写経や刻印の際にほとんど関心が払われることもなく、簡単に誤写・誤刻されたに違いありません。よって現行の各経本を比較したところで正しいスペルに到達できるような気もしません(注)。

なるべく最古の経本を探し出して、それに当たるしかいい方法はなさそうですが、それはとうてい私の手に余る仕事です。

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(注)
誤記・誤刻の箇所がチベット語であるならば、前後の文脈から類推して、正しいスペルに脳内で補正できる。例えば、文字列はどう見ても「ngad」であっても、前後の文脈から「dang」と補正する、など。

しかし未知の言語(ここではブルシャ語)が誤写・誤刻されてしまうと、どれが正しいスペルやら判断する基準がなく、お手上げとなる。

2009年7月17日金曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(8) 仏教ニンマパとブルシャ

実はこの「ドゥツァ体」の伝来と関係ありそうな経典がチベット仏教にあるのです。

チベット仏教の古派であるニンマパが保持する重要な経典に、

『de bzhin gshegs pa thams cad kyi thugs gsang ba'i ye shes don gyi snying po rdo rje bkod pa'i rgyud rnal 'byor grub pa'i lung kun 'dus rig pa'i mdo theg pa chen po mngon par rtogs pa chos kyi rnam grangs rnam par bkod pa zhes bya ba'i mdo』

というものがあります。

漢名は
『一切如来密意智心蔵金剛荘厳本続修習成就旨普集名大乗経(現観法門荘厳経)』(注1)
または
『一切如来心秘密智慧心髄義金剛荘厳怛特羅瑜伽成就聖典総集明経大乗現観法門荘厳と名づくる経』(注2)

一般には、通称の『sangs rgyas kun gyi dgongs pa 'dus pa'i mdo(一切仏集密意経)』で呼ばれる場合が多いようです。

これは「吐蕃時代にチベット語に翻訳された」とされる、いわゆる「古タントラ(rnying rgyud)」の一つ(注3)。ニンマパではテルマ(gter ma/埋蔵経典)が有名ですが、これはテルマではなくインド仏典からの翻訳で、素性の明確な(と、ニンマパでは認識されている)経典(カーマ/bka' ma)。吐蕃時代にインド仏典から翻訳された密教経典は「古タントラ」と総称されます。

ニンマパの密教経典は新訳派とは違い、このような「古タントラ」が中心になっています。この『一切仏集密意経』は、ニンマパの密教「アヌヨーガ乗」(注4)の釈タントラとして重要視されています。

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さて、この『一切仏集密意経』ですが、後書きでは、

「インドの教師ダルマボディ(rgya gar gyi mkhan po dha rma bo dhi)、大学者ダーナラクシタ(ring lugs chen po da' na ra gshi ta)、主編・訳経師チェツェンキェー(zhu chen gyi lo tstsha ba che btsan skyes)によって、ブルシャ国のトム(bru zha'i yul gyi khrom)においてブルシャ文字(bru zha'i yi ge)から翻訳された」

と記されています。

まず、「トム(khrom)」とは何でしょうか?

現代チベット語では「市場」「群衆」という意味で使われます。「bru zha'i yul gyi khrom」をそのまま「ブルシャ国の市場」あるいは「ブルシャ国の町」と解しているケースもありますが、この場合は吐蕃時代の用法「植民地/占領地」(注5)と考えた方がよさそうです。

地名(町の名?)という可能性もあるかもしれませんが、ギルギット~バルティスタン周辺にそれに該当するような地名は今のところ見つかりません。

なお、前述のように『ラダック王統紀』では8世紀後半の記事ですでに「sbal ti」と「bru shal」が区別されていますが、バルティとブルシャはもともと同一国だったわけですから、この経典が翻訳された場所も、ギルギット/フンザ~バルティスタンと広く可能性を考えておいた方がいいでしょう。

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訳経の時期はいつでしょうか?。

「khrom=植民地」という解釈が正しければ、おそらく、親唐政権であった小勃律を吐蕃が制圧した737年以降のこととみてよさそうです(唐軍に奪還された747年以降の約十年間を除く、注6)。下限は吐蕃帝国の崩壊期(9世紀半ば~後半)になります。

訳者のダルマボディ、ダーナラクシタ、チェツェンキェーはニンマパ関係文献では、アヌヨーガ乗の祖師系譜にその名が現れます(というより、この経典自体がそれらの元ネタのようですが)。

ダーナラクシタはウディヤーナの僧or行者で、グル・リンポチェよりアヌヨーガの教えを受けています。ダルマボディはマガダの僧or行者でダーナラクシタの弟子筋に当たるようです。チェツェンキェーはブルシャの密教僧で、ダルマボディの孫弟子になります(注7)。

ダーナラクシタとダルマボディはブルシャ国に行き、そこでチェツェンキェーと共にアヌヨーガ経典をまずサンスクリット語からブルシャ語に翻訳し、さらにブルシャ語からチベット語に翻訳した、とされています。グル・リンポチェの弟子・孫弟子・曾孫弟子あたりに当たる世代の出来事ですから、8世紀末~9世紀前半に置くのはいい線でしょう。

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ニンマパの伝承では、ブルシャ国はインド~ウディヤーナ(スワート谷)から伝わった密教アヌヨーガ乗が盛んだった場所とされています。アヌヨーガをブルシャからチベットに導入した功労者はヌブチェン・サンギェ・イェシェ(gnubs chen sangs rgyas ye shes/通称ヌブワン/gnubs ban、8~9世紀、注8)。サンギェ・イェシェはグル・リンポチェ(Padmasambhava)の二十五人の弟子の一人で密教行者(sngags pa)の祖とされています。

サンギェ・イェシェはインド、ネパール、ブルシャなどを歴訪し諸師に教えを請いました。ブルシャの密教僧チェツェンキェーはそのような師の一人だった、といいます。ブルシャのアヌヨーガはサンギェ・イェシェの手でチベットに伝わり、ニンマパに伝承されてきたわけです。『一切仏集密意経』もサンギェ・イェシェがブルシャからチベットに持ち帰ったものと思われます(注9)。

アヌヨーガ乗はニンマパの修業体系に組み込まれ、現代までしっかり伝承されています。欧米・日本のニンマパ研究ではゾクチェンの人気が高く研究も盛んですが、このアヌヨーガ乗については最も研究の遅れている分野で、詳しい内容はあまり報告されていません。

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一方ブルシャのアヌヨーガ乗の伝統はどうなったのでしょうか。チベット側の記録でもそれは伝わっていません。また密教隆盛の様子もこれ以上わかりません。

しかしこの地は、大乗仏教発祥の地とされるガンダーラ、密教発祥の地とされるウディヤーナ(スワート)、7~8世紀に仏教が栄えたカシミールなどの仏教大国のすぐ北に位置していますから、大乗仏教、特に密教が伝わり栄えたであろうことは充分推測できます。ただし具体的な資料に乏しく、推定のレベルに留まります。

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(注1)
・大谷大学図書館・編 (1939) 『大谷大学図書館蔵 西蔵大蔵経 甘殊爾勘同目録 I』. pp.177. 大谷大学図書館, 京都.

にみえる漢名。大谷大学が所蔵しているのは寺本婉雅が将来した『北京殿板赤字西蔵大蔵経』。

(注2)
・東北帝国大学法文学部・編, (財)斎藤報恩会・補助 (1970) 『西蔵大蔵経総目録』. pp.2+701+124. 名著出版, 東京.

にみえる漢名。東北大学が所蔵しているのは多田等観が将来した『デルゲ版チベット大蔵経』。

(注3)
古タントラは、素性に疑問がある(つまりインド仏典の翻訳ではなく偽作の疑いがある)として、プトゥン(bu ston、1290-1364)の大蔵経目録にはほとんど収録されていない。これを踏襲する形で、古タントラは新訳派(カギュパ、サキャパ、ゲルクパ)にはほとんど顧みられていない。

『北京版大蔵経』では、「秘密部(密教部/rgyud)」の末尾におまけとして古タントラが付されている。大谷大学藏『北京版西蔵大蔵経』ではNo.452が『sangs rgyas kun gyi dgongs pa'dus pa'i mdo(一切仏集密意経)』。

『ジャン・サタム版(リタン版)大蔵経』、『デルゲ版大蔵経』などでは「古タントラ部(rnying rgyud)」が独立して設けられ、古タントラはそちらに収録されている。『ジャン・サタム版(リタン版)』ではNo.747が、東北大学蔵『デルゲ版』ではNo.829がこの経典。

大谷大学蔵『北京版』目録については(注1)を、東北大学蔵『デルゲ版』目録については(注2)を参照されたし。

在ベルリンの『ジャン・サタム版(リタン版)』目録については、

・IMAEDA Yoshiro (1982~84) CATALOGUE DU KANJUR TIBÉTAIN DE L'EDITION DE 'JANG SA-THAM (2 vols.). The International Institute for Buddhist Studies, Tokyo.

を参照されたし。

これら古タントラは、15世紀にラトナ・リンパ(ratna gling pa)が蒐集し、18世紀にジグメー・リンパ('jigs med gling pa)の手によって『rnying ma'i rgyud 'bum(古タントラ全集)』として開版されている。『古タントラ全集』No.161がこの経典。

『古タントラ全集』目録については、

・金子英一 (1982) 『古タントラ全集解題目録』. pp.68+496+23. 国書刊行会, 東京.

を参照されたし。

(注4)
ニンマパでは、教法を「九乗の宗義(theg pa rim pa dgu)」に区分している。

◆小の乗(phyi mtshan nyid kyi theg pa gsum)=顕教
1-声聞乗(nyan thos kyi theg pa)
2-独覚乗(rang rgyal ba'i theg pa)
3-菩薩乗(byang chub sems dpa'i theg pa)
◆中の乗(dka' thub rig byed kyi theg pa)=外タントラ乗(phyi rgyud sde gsum)
4-クリヤ乗(bya ba'i rgyud kyi theg pa)
5-ウパヤ乗(upa'i rgyud kyi theg pa)
6-ヨーガ乗(rnal 'byor gyi rgyud kyi theg pa)
◆大の乗(klong gyur thabs kyi theg pa)=内タントラ乗(nang rgyud gsum)
7-マハーヨーガ乗(rnal 'byor chen po'i theg pa)
8-アヌヨーガ乗(rjes su rnal 'byor gyi theg pa)
9-アティヨーガ乗=ゾクチェン/大究境(rdzogs pa chen po shin tu rnal 'byor gyi theg pa)

「アヌヨーガ乗」とは、「貪」を除くことを目的とし、「界(dbyings)」と「智(ye shes)」を体得するもの、だという(平松1989)。

この辺は私には理解が浅いところなので、正確な内容や修業の実際についてはニンマパ関係の資料をお読み下さい。

(注5)
「khrom」は「grom」ともつづられ、吐蕃時代、ル(ru)/トンデ(stong sde)制度が敷かれたチベット本土(ウー、ツァン、スム・ユル、シャンシュン-トンデ制度のみ)や藩王国(コンポ、ダクポ、ニャン・ユルなど)の外側に広がる占領地。旧・吐谷渾領の青海~河西回廊、タリム盆地、バルティスタン(大勃律)~ブルシャ(小勃律)あたりが対応するようだ。

参考:
・林冠群 (2000) 『唐代吐蕃的桀琛(rgayl phran)』. 蒙蔵委員会, 台北. → 再録 : 林冠群 (2006) 『唐代吐蕃論集』. pp.1-64. 中国藏学出版社, 北京.
・石川厳 (2003) 吐蕃帝国のマトム(rMa gróm)について. 日本西蔵学会会報, no.49[2003/05], pp.37-46.

「khrom」に関する研究では最も重要と思われる

・Géza Uray (1980) KHROM : Administrative Units of the Tibetan Empire in the 7th-9th Centuries. IN : Michael Aris+Aung San Suu Kyi(eds.) (1980) TIBETAN STUDIES IN HONOUR OF HUGH RICHARDSON. pp.310-318. Warminster.

は残念ながら未見。

(注6)
吐蕃が8世紀後半には大小勃律を奪還していた事実は、『la dwags rgyal rabs(ラダック王統紀)』のティソン・デツェン[位:754-97d]時代の記事として、

「四方の全地域が制圧され、東は中国(rgya nag)、南はインド(rgya gar)、西はバルティ(sbal ti)とブルシャル('bru shal)、北はホル(hor)のサイチョ・オドンケーカル(sa'i cho o don kas dkar、おそらく西州=旧・高昌国=トゥルファンを意味すると思われる)すべてを占領した」

とあることで裏付けられる。ただしこの記事では、40年にわたるティソン・デツェン時代のいつか、という細かい年代がわからない。

なお、大小勃律とは関係ないが、西州(トゥルファン)は吐蕃に占領されることなく唐の安西都護府として孤立した状態が続いたのであり、「sa'i cho・・・=西州」だとすればこの記事は誇大。西州の北に位置する北庭(ビシュバリク=ウルムチの東にあるジムサル=吉木薩爾)も、790年に吐蕃が占領したものの、翌791年にはウイグルが奪還した模様。

『敦煌文献・年表(編年記)』では、猿年=756年の記事として、

「猿年(756年)・・・(中略)・・・ワンジャク・ナクポ(ban 'jag nag po)国(パンジ川流域か?)、ゴク(gog)国(ワハーン=護密国)、シグニク(shig nig)国(シグナン=識匿国)など上手方面(stod phyogs)(諸国)から使者が(吐蕃宮廷を訪れツェンポに)拝礼した。」

とある。

747~53年には、小勃律(ブルシャ)、朅師(チトラル)、大勃律(バルティスタン)で吐蕃軍は唐軍に圧倒されていたはずなのだが、755年の安禄山の乱勃発による混乱で、早くも唐は西方ににらみが利かなくなったようだ。大小勃律には触れられていないが、大小勃律を依然唐が抑えていたならば、それよりさらに西方のパミール諸国が吐蕃へ使者を派遣できるはずがない。この時点で吐蕃はすでに大小勃律を奪還していた、とみてよさそうだ。

(注7)
ボン教側の伝承によると、チェツェンキェーはブル/ドゥ氏の一員とされる。トツェンキェー(mtho btsan skyes)/ツェツェンキェー(mtshe btsan skyes)の名で現われ、ボン教でも訳経師として知られている。

詳しくは、のちのエントリーで述べよう。

(注8)
サンギェ・イェシェの生没年は、

・斎藤昭俊+李戴昌・編(1989) 『東洋仏教人名事典』. pp.425. 新人物往来社, 東京.

では(823-962)とあり、百四十歳という異常な長命とされる(832年生まれとする資料もある)。サンギェ・イェシェの伝説にはランダルマ王[位:841-42d]との関わりも語られ、ペルコルツェン王[位:9世紀末-10世紀初]の代まで生存した、とされることもある。上述の生没年はこれらのエピソードを重視した結果の数字と思われる。

しかし、サンギェ・イェシェはティソン・デツェン王[位:754-97d]時代の仏教導入期にグル・リンポチェの弟子となり訳経作業に参加した、ともされ、これだと上記の生年とは大幅に矛盾する。

すべてのエピソードを考慮すると、その活動時期は約二百年にも渡ることになってしまい、さすがに信憑性に欠ける。

ニンマパの伝承では珍しいことではないが、サンギェ・イェシェの伝説には虚実入り乱れた内容が伝わっていると推測され、その実像はいまだ謎につつまれている。

寿命を百歳くらいとみて(それも疑問がないわけではないが)、ブルシャでの訳経エピソードとの整合性を考慮すると、「生年は8世紀前半/半ば、没年は9世紀前半/半ば」あたりが妥当なところだろうか。

サンギェ・イェシェの図像:
・Ragjung Yeshes Publications > Glossary > Sangye Yeshe of Nub
http://www.rangjung.com/authors/Sangye_Yeshe_of_Nub.htm

(注9)
アヌヨーガ乗の経典は「インド~ブルシャから伝わった」というより、実はサンギェ・イェシェ自身が創作し、インド仏典オリジナルに仮託したものではないか?と疑う説もある。

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参考(全般):
・George Roerich(tr.) (1949) THE BLUE ANNALS. pp.xx+1275. Asiatic Society of Bengal, Calcutta. → Reprint : (1996) Motilal Banarsidass, Delhi.
・Giuseppe Tucci (1970) Die Religionen Tibets. W.Kohlhammer, Stuttgart. → 英訳版 : Geoffrey Samuels(tr.) (1980) The Religion of Tibet. Routledge & Kegan Paul. → Reprint : (1988) pp.xii+340. University of California Press, Berkeley.
・Eva M. Dargyay (1977) THE RISE OF ESOTERIC BUDDHISM IN TIBET. → (1979) SECOND REVISED EDITION. Motilal Banarsidass, Delhi.
・金子(1982)上述.
・平松敏雄 (1982) 『西蔵仏教宗義研究 トゥカン『一切宗義』 第三巻 ニンマ派の章』. pp.x+213. 東洋文庫, 東京.
・平松敏雄 (1989) ニンマ派と中国禅. 長尾雅人ほか (1989) 『岩波講座 東洋思想 第一一巻 チベット仏教』所収. pp.263-287. 岩波書店, 東京.
・田中公明 (1993) 『チベット密教』. pls.+pp.iii+247+xxxiii. 平河出版社, 東京.
・Yeshe Tsogyal, Erik Pema Kunsang(tr.), Marcia Binder Schmidt(ed.) (1993) THE LOTUS-BORN : THE LIFE STORY OF PADMASAMBHAVA. pp.x+321. Shambhala Publications, Boston.

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(追記)@2009/07/24
チベット大蔵経に関しては次の文献を参照した。

・御牧克己 (1987) チベット語仏典概観. 長野泰彦+立川武蔵・編著 (1987) 『北村甫退官記念論文集 チベットの言語と文化』所収. pp.277-314. 冬樹社, 東京.
・今枝由郎 (1989) チベット大蔵経の編集と開版. 長尾雅人ほか (1989) 『岩波講座 東洋思想第一一巻 チベット仏教』所収. pp.325-350. 岩波書店, 東京.

2009年7月13日月曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(7) チベット文字ドゥツァ体

チベット文字にはいろいろな字体があります。一般によく見る

はウチェン(dbu can/有頭字)と呼ばれ、いわゆる楷書体・活字体です。これに対し主に筆記体として用いられるウメー(dbu med/無頭字)という字体があります(注)。

そのウメーの一種に、「ドゥツァ/ジュツァ('bru tsha)体」という字体があります。

図の出典は、
・Alexander Csoma de Körös (1834) A GRAMMAR OF THE TIBETAN LANGUAGES. Calcutta. → Reprint : (1938) 文殿閣書荘, 北京.

「'bru tsha」は「bru sha/'bru zha」の訛りとされ、これは当然「ブルシャ起源の書体」を意味すると推測されています。しかし、前述のように、ギルギット~フンザ周辺では発掘経典や碑文がかなり発見されていますが、その中に「ドゥツァ体」とみられる書体は見あたりません。ですから、本当のところそれが事実であるのか不明です。

そもそも、かつてギルギット~フンザ周辺でチベット語・チベット文字がどの程度普及していたのかもわかりません。仮にブルシャ起源の書体であったとしても、それは元々チベット語・文字を表記するためではなく、他言語を表記するための文字で、チベット文字用にある程度アレンジされた上で伝わった書体なのでしょう。

また、この書体がいつ、どういう経緯でチベットに伝わったのかも謎です。わからないことだらけですね。というより、今まで注目されたことがなかった、というのが実状でしょう。

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ドゥツァ体は、行政文書や書籍のタイトルなどに装飾文字として用いられることが多い書体のようですが、もともとはボン教に関係する書体ではなかろうか?とも考えられます。

というのも、ドゥツァ体には「キュン体(khyung bris)」という異名があります。ブル/ドゥ('bru)もキュン(khyung)もボン教と縁の深い言葉です。

キュン=ガルーダ(Garuda)はボン教と関係の深い尊格であり、ボン教/シャンシュン王国における最重要氏族キュンポ(khyung po)氏の名ともなっています。そして、ブル/ドゥもまたボン教の有力氏族の名なのです。

このまま行くとボン教方面に話題が移ってしまいますが、その前にブルシャとチベット仏教との関わりについて見ておかなければなりません。

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(注)
ウメーは種類が多く、ドゥツァ体の他に、バムイク('bam yig)=スグリン(sug ring)、スクトゥン(sug thung)、ザプディー(gzab bris)、バルディー(bar bris)などがある。

出典は、
・長野泰彦 (2001) チベット文字. 河野六郎ほか・編著 (2001)『言語学大辞典 別巻 世界文字辞典』所収. pp.595-601. 三省堂, 東京.

2009年7月9日木曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(6) シンとヤシクーン

カラコルム地域は今でこそイスラム化してはいますが、かつてはインド文化と共通したカースト制度を持っていました。インド本土ほど複雑なものではなく、カースト間の婚姻もわりとゆるいシンプルなものですが。

パキスタンはカースト制度を否定するイスラム教を国教とする立場上、最近の本で詳しく取り上げられることはありませんが、インド文化の残滓といえるカースト制度は今もある程度残存しているようです。19世紀にはカースト制度の名残も現在より色濃く、当時の本ではかなり詳しく報告されています。

ここでは主にBiddulph(1880)の報告に基づき、主に19世紀のギルギットの様子をまとめてみます。

最上位に位置するのが王族「ラジャ(Raja)」です。その下には豪族・領主階級「ロノ(Rono)」がいます(インドの「Rana」に対応する)。Ronoは、Raja=トラカン王朝同様その出自をペルシアやアラブに求めていることが多いようですが信憑性はありません。出自がカシミール、という説は信憑性がありそうです。

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その下に来るのが「シン(Shin)」です。ギルギットを中心とした一帯で話されているシナー語(Shina)の名は彼らの名から取られています。彼らは高位カーストとされてはいますが、特に武士カースト(クシャトリヤ)に相当するというわけではなさそうです。

彼らに特徴的なのは、土着ではなく南の方から移り住んだと伝えられていること(注1)、インド的なヒンドゥ教の影響(らしき風習)を色濃く残していることです。

南といってもそれほど遠くなく、インダス川下流方面のチラス(Chilas)/コーヒスタン(Khohistan)~カシミール直北のキシャンガンガー(Kishanganga)あたりが原住地とみられています。カシミール史にはカシミールのすぐ北に住む異民族「Darada」が頻繁に現れ、カシミールの王家とは敵対したり同盟したり同化したりと密接な関係を続けています(注2)。このダラダとシンはほぼ同一勢力であったと考えてよさそうです(注3)。

シン人に「sing(singhに同じ/獅子)」を姓に持つ人が多いことは、西インドを発祥とするラージプート(Rājpūt)と共通しています。また牛に関する禁忌も、ヒンドゥ教の牛を神聖視する風習が、イスラム化後に忌避という形に転じて生き残ったものと推測されています(注4)。

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シンの下に置かれているのが「ヤシクーン(Yashkun)」。これがギルギット~フンザの原住民とされます。不思議なのは、シナー語話者であるギルギットのヤシクーン、ブルシャスキー語話者であるフンザ~ナガルのヤシクーン(注5)は言語の違いにもかかわらず同じ扱いになっていることです。出自が同じとみられているわけでしょう。

シン人が南に起源を持ち、北へと移動してきたことを考えるならば、ギルギットのヤシクーンは元来シナー語話者ではなくブルシャスキー語話者で、シン人移住後その影響を受けてシナー語を話すようになった、という仮説が成り立ちます。

ブルシャスキー語分布域を見てみましょう。現在は東のフンザ~ナガルを中心とする地域と西のヤスィンを中心とする地域(注6)に分かれています。

カラコルム地方言語地図

その間は、北からはワヒー語が、南からはシナー語が食い込んで両地域を分断していることがわかります。ワヒー語が後来の言語であることは明らかです。またシナー語・文化も南からやって来たと推測されています。比較的近年に、フンザ~ナガルからヤスィンに(あるいはその逆)大規模な移民が行われたという記録(伝承)もありません。

ということは、ヤスィンとフンザ~ナガル間のプンヤール、イシコマン、グピスあたりも元々はブルシャスキー語の分布域で、後にシナー語・文化圏に取って代わられ、またさらに後には北から移住してきたワヒー人によって北部はワヒー語文化圏になったのであろう、と推測できます。

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というわけで、カラコルム地域では古来より広くブルシャスキー語(あるいはその祖語)が話されていたのではないか?という仮説は一応立てることは可能です。しかしなにしろ肝心な古い時代の言語資料が一切ないので、今のところは仮説に留まります。

「ヤシクーン」というカーストの存在が特に重要になりますが、これが本当に昔は全部ブルシャスキー語を話していたのか?が問題となります。

F.M.Khan(2002)では、「ギルギットのヤシクーンは古くからシナー語を話していた」という説を唱えています。そうすると、ブルシャスキー語を話すフンザ~ナガルのヤシクーンとはどういう関係になるのでしょうか?残念ながら、この著作ではそれに対する答えはありません。

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「カラコルム地域全域(古代ボロルの領域)ではかつてブルシャスキー語あるいはその祖語が話されていた」という仮説は検討する価値はあると思っていますが、充分検証せず、これを前提にいろいろな話を進めていくと、一挙にトンデモ方面に足を踏み入れてしまいますので、ここでやめておきます。

しかし、断片的な情報ではありますが、この説を補強できそうな資料が意外な方面にありました。チベット語文献です。

というわけで、チベット方面に一度戻りましょう。

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(注1)
ただし、シン人の北上の過程はあまりわかっていない。シン人がまとまった勢力として武力でギルギットを制圧したような記録(伝承)はないため、おそらく長い時間をかけてギルギットの社会に食い込んでいき、上位カーストとしての地位を確立したものと思われる。

(注2)
ムガル帝国に併合される直前、独立カシミール王国の最後を飾るチャク(Chak)朝(1555~89)はこのダルドの王朝。

カシミール語もシナー語と同じダルド諸語に区分されている。ただしカシミールは古くからインド側と交流があり、ダルド諸語の中で一番インド・アーリア系言語の影響が強い(ダルド諸語に多くみられるいわゆる「二十進法」はカシミール語では失われている)。

カシミール人とシン人(ダルド)は近接して住んでおり、元来両者の間にどれほど差があったかわからない。カシミール人・文化はインドからの影響を受けつつ同時に周辺民族を同化し取り込んでいった。

(注3)
「Darada」という集団名・地名は、ヘロドトス(BC5C)『歴史』に、ハカーマニシュ(アケメネス)朝ペルシア支配地の東端に位置し、ガンダーラの隣国の人々「Dadikai」として現れる。その後もストラボン(AD1C)『世界地誌』には「Derdai」として(位置は東インドと間違っているが)、大プリニウス(AD77)『博物誌』には「Dardae」として、プトレマイオス(2C)『地理学』では「Daradrae」としてその名がギリシア・ローマに伝わっている。

参考:
・松平千秋・訳(1967) 『世界古典文学全集 第10巻 ヘロドトス』. pp.456+29+pls. 筑摩書房, 東京.
・Luciano Petech (1977) THE KINGDOM OF LADAKH C.950-1842A.D. pp.XII+191. IsMEO, Roma.
・織田武雄・監修, 中務哲郎・訳 (1986) 『プトレマイオス地理学』. pp.xvi+263+pls. 東海大学出版会, 東京.
・中野貞雄+里美+美代・訳(1986) 『プリニウスの博物誌 第I巻』. pp.vi+531. 雄山閣出版, 東京.
・Dani(1991)前掲.
・飯尾都人・訳(1994) 『ストラボン ギリシア・ローマ世界地誌II』. pp.696. 龍溪書舎, 東京.

「シン=ダラダ/ダルド」という認識が正しければ、シナー語を代表とし、コワル語、カラーシュ語などを含めた総称「ダルド諸語」という用語はさほど悪いものではありません。ところが「ダラダ/ダルド」はあくまで他称ですから、シン人やコワル人などが直接「ダルド人」と呼ばれたり、カラコルム地域一帯が「Dardistan」と呼ばれたりするのは現地の人々には抵抗があるようです。

というわけで、現在は個別の民族名・言語名としての「ダルド」という呼び名はほぼ絶滅していて、民族学・言語学上でシン人/シナー語やコー人・コワル語などを含む諸民族・諸言語の「総称」として生き残っているだけになります。

(注4)
シン人は、牛に対する禁忌を持っていることがきわめて特徴的。かつては牛肉を食べない、牛乳を飲まない、なるべく触ることもしない、という徹底ぶりだった。所有はしても、飼育は下位カーストの使用人にさせていた。今はだいぶ消滅してきているようだ。

ヒンドゥ教では、シヴァ派にとってはシヴァ神の乗り物である牡牛ナンディ(Nandi)崇拝として、ヴィシュヌ派にとってはヴィシュヌ神の化身とされる牛飼い出身の英雄クリシュナ(Krishna)に対する信仰が、牛への神聖視に発展したものとされている。

参考:
辛島昇ほか・監修(1992) 『南アジアを知る事典』. 平凡社, 東京. → (2002) 改訂増補版. pp.1005.

シン人の牛に関する禁忌は、イスラム化後に神聖視が忌避という形に転じて生き残ったものと推測されている。

これとは別に、私見ではありますが、シン人の牛忌避習俗の起源は、シャクティ(女神)信仰と関係しているのではないか?とも考えているのですが、これは長くなるので稿を改めましょう。

なお、この風習はシン人の別派であるラダック・ダー・ハヌーのブロクパにも残っているが廃れつつあるのは同様。また、カラーシュ人にもあるようで、ダルド系民族全体の歴史を探る上でも重要な風習と思われる。この辺も突っ込み始めるときりがないので、ここまで。

(注5)
フンザ~ナガルでは、シンはごく少数派。

(注6)
ヤスィンのブルシャスキー語はウェルチクワル語(Werchikwar)と呼ばれ、他言語の影響が少ない古形を保持していると考えられている。

「Werchikwar」とはまた奇怪な響きを持つ名だが、実はこれが「bru sha」、「Burusho」につながる単語ではないか?という推測もある。しかし今のところ結論は出ていない。

2009年7月6日月曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(5) 古代ボロルの言語は何だ?

ブルシャスキー語はいつから話されていたのでしょうか?そしてその範囲はどこまで広がっていたのでしょうか?

ブルシャスキー語が西欧人に知られるのは、イギリス人がこの地域に入り込むようになった19世紀半ば以降。Biddulph(1880)はこの言語を「Boorishki」と表記しましたが、初めての本格的な言語学的研究であるLorimer(1935~38)では「Burushaski」と表記され、以来この表記が一般的となっています。

それ以前にはブルシャスキー語の存在を示す報告は今のところ見あたりません。

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玄奘が『大唐西域記』の鉢露羅(Bolor)国の条で伝えている

「文字はおおむね印度と同じであるが、言語は諸国と異なっている。」(注1)

は、630年頃のボロルの言語を推測する上で重要です。玄奘が通過して来た周辺国で話されている、イラン系言語、テュルク系言語、インド・アーリア系言語、そしてカシミール語(シナー語とカシミール語は同グループ)とも違っていたものと推測できます。しかしこれがブルシャスキー語(あるいはその祖語)かどうか、判断できる材料はありません。

次に、慧超が『往五天竺国伝』の大勃律・揚同・娑播慈(注2)の条で伝えている

「衣服、言語、風俗もすべて(インドと)異なっている。・・・当地は胡人がいるので(仏法を)信仰しているのである。」(注3)

また小勃律の条で伝えている

「衣服、風俗、飲食物、言語は大勃律と似ている。」(注3)

も、720年頃のボロルの言語状況を伝える数少ない資料です。慧超は直接ボロル方面に足をのばしたわけではなく、これは伝聞による情報と考えられていますが、その情報の正確さには定評のあるところです。

インドと異なる言語が話されていた、とする情報は玄奘と矛盾しませんが、それをこえるようなものではありません。ここで貴重なのは、大・小勃律が似た言語を話している、という情報です。

大・小勃律はもともと一つの国(ボロル/勃律)なのですからそれほど不思議ではありませんが、シナー語、ブルシャスキー語、ワヒー語、バルティ語という系統の違う言語に細かく分かれている現状とは大きな違いです。

しかし当時の言語が具体的にどのような言語であるのか?ブルシャスキー語(あるいはその祖語)であるのか?という問題は依然わからないままです。

「胡人がいる」という情報からはコーカソイドの形質を持つ人々の存在を窺わせますが、玄奘の情報から、彼らの言語はイラン系でもインド・アーリア系でもなかったと推測できます。これはまさに現在のフンザそのものの状況であって、なかなかにわくわくするわけですが、どうしてもその肝心の言語自体にたどりつきません。

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8世紀よりチベット語で「ブルシャ(bru sha/'bru zha)」という名が現れます。これが「ブルシャスキー」という言語名と深く関係しているのは間違いないはずです。

かといってこの地名の存在だけで、当時すでにブルシャスキー語あるいはその祖語が話されていた、という証拠にはなりません。それにこの頃は、フンザ~ナガルだけではなくバルティスタンからカラコルム一帯がブルシャと呼ばれていたはずです(バルティスタンは後にブルシャの範囲からはずれますが)。ブルシャスキー語は古代にはこの広い範囲で話されていたのでしょうか?

先の慧超の報告「大・小勃律の言語は似ている」から判断するに、その可能性は高そうです。しかしなんとか肝心なその言語の実体にたどりつきたいものです。

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カラコルム各地に残されている経典や碑文のうちで紀元千年紀中のものは、大半がインド方面で使われていたインド系の言語(ガンダーラ語、サンスクリット語など)・文字(カローシュティー文字、ブラフミー文字、グプタ文字など)でつづられています。このあたりの事情は、玄奘が伝える情報と一致します。

しかし、この地域でそれらの言語が日常語として使われていたとは思えません。これら外来の言語・文字を知っていたのは、支配者階級や宗教関係者のみだったことでしょう。現地の言語を表記する文字は、ごく最近まで存在しなかったのですから、碑文を残す場合は経典で親しんだ外来の言語・文字で記すことになったのであろう、と推測できます。

というわけで、経典や碑文に現地の言語を伝えてくれるものは発見されていません。困ったものです。

この問題はなかなかつかみ所がないのですが、次回はもう少し別の方面から攻めてみましょう。

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(注1)
訳文は、

・水谷真成・訳注(1971) 『中国古典文学大系 大唐西域記』. 平凡社. → 再版 : (1999) 『大唐西域記 1~3』. pp.380+396+493. 平凡社東洋文庫653・655・657, 東京.

による。

(注2)
大勃律は東西(大小)分裂後のボロル/勃律の東側、現在のバルティスタン。揚同は羊同に同じく、シャンシュンと推定されている。娑播慈は今のところ不明だが、おおむねラダックあたりだろう、という意見が大勢を占める。

訳文は示さなかったが、この三国は吐蕃支配下にある、と記されており、720年頃の西部チベット~カラコルムの政治情勢を伝える貴重な記録でもある。

(注3)
訳文は、

・桑山正進・編 (1998) 『慧超往五天竺國傳研究 改訂第二刷』. pp.xii+292+pls. 臨川書店, 京都.

による。

2009年7月2日木曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(4) フンザ王国アヤシ朝

ここまでフンザ自体の歴史がちっとも出てこない、と不審に思うかもしれませんが、その通りで、ギルギットのトラカン朝から分かれて15世紀頃にフンザにアヤシ(Ayash)朝が、ナガルにマグロト(Maglot)朝が成立するまで、フンザ~ナガルの歴史というものはほとんど記録に残っていません。中国の求法僧旅行記や地理志にもフンザ~ナガルと特定できる場所は見あたりません。

フンザ近郊にあるハルデイキシュ碑文(注1)には、5~6世紀頃とみられる(おそらく字体より推測したもの)「rana」、「raja」、「maharajna」といった称号を持つ支配者らしき人名が現れます(Dani 1991)が、これがフンザのローカルな支配者であるのか、ギルギットを中心とした支配者であるのか、はたまた別の地域の支配者であるのか、わかりません。

7世紀以降、フンザ~ナガルはバルティスタン~ギルギットを支配するボロル(パトラ・シャーヒー朝)の支配下に入っていたと思われますが、具体的な支配体制などは謎のままです。

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現代まで王制が存続していたナガル王家(マグロト朝、1972年に王制廃止)とフンザ王家(アヤシ朝、1974年に王制廃止)とは、15世紀頃ギルギット・トラカン朝傍系の兄弟Jamshed(別名Maglot、ブルシャスキー語で「オスのマングース」の意味-追加@2009/07/04)とSahib Khan(別名Girkis、ブルシャスキー語で「ネズミ」の意味-追加@2009/07/04)がそれぞれナガルとフンザに代官として赴任し、以後その子孫が代々所領として引継ぎ、実質的に王国としてトラカン朝から独立するようになったものです。

ナガルとフンザは、マグロトとギルキス兄弟の頃から仲が悪く、初代フンザ王ギルキスはナガル勢によって暗殺されてしまいます。それ以来、両国の不仲は伝統的なものとなり、両国間ではたびたび戦争が起きていますし、住民同士の険悪な感情は今も続いています。

ナガル王家はマグロトの子孫ということですんなり系譜を追うことができますが、フンザ王家の方は王朝初期にちょっと紆余曲折を経ています。

フンザ初代の王ギルキスがナガル勢に暗殺された後、その子マユラ(Mayura)あるいは孫マユリタム(Mayuritham-注2)はワハーン谷に亡命し、その子あるいは孫アヤショ(Ayasho)の代にフンザに戻り王家を再興した、と口伝は伝えています(注3)。実質的にはこのアヤショが王家の祖なのでしょう。王朝名Ayashはこの王に因んでいます。

このアヤショはマユラの子とされる場合と、マユリタムの娘(名前不明)がワハーンの首長(Wali)に嫁いで生まれたとされる場合があります。後者の場合は、母方ではギルキスから続く血筋ではありますが、父方ではワハーン・ワリーの子になるわけで、実際ギルキスにつながる人物であったのか疑われます。本当のところは、ワハーン谷からやって来た(ギルキスとは無縁の)侵略者アヤショがフンザ王家を開いたのではないか?という可能性も考慮すべきかと思われます。Ayashはブルシャスキー語で「天」の意味であることも何やら意味深です。

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ナガル王家が代々バルティスタンと親しい関係にあったのに対し、フンザ王家の方は一貫して北の方を向いており、ワハーン谷やタリム盆地側のヤルカンドと親しい関係にありました。王家自身がワハーン谷勢力や、カラコルムの南へ移動してきたワヒー人と婚姻関係を結んでいるほどです。

ナガル人の形質がややモンゴロイド的である(チベット系民族であるバルティ人の血が混じっている)のに対し、フンザ人の形質は青い目・金髪がかった人も多く、きわめてコーカソイド的です。これが俗に云う「ギリシア人子孫説」の勢いを助長しているわけです。その形質をフンザ独特であるかのように伝える報告が多いのですが、実際はお隣りに住むワヒー人の形質と大差ないように感じます。

以前、ススト(カラコルム・ハイウェイのパキスタン側出入国管理所)で金色がかった髪・青い目で背も高くいかにも白人的な容貌ですがシャルワーズ・カミーズ(注4)を着た男を見て「へえ~パキスタンのこんなとこで地元に同化して働いてるヨーロッパ人もいるのかぁ。ガイドかな。」などと勘違いしたものでしたが、ワヒー語をしゃべっているのを聞いてはじめてワヒー人だと気づいたことがありました。

ギリシア人の末裔扱いで人気のフンザに対し、出自が明らかなワヒー人に対しては「ギリシア人の子孫?」という説は絶えて聞いたことがありません。この見方にはある偏ったフィルターがかかっているような気がしてなりません。

やはりフンザ人に見られるコーカソイド的な形質は、ブルショ人の出自をその方面に求めた上で(言語的にはたどれないが)、さらに長年ワハーン谷あるいはお隣りのワヒー人との交流を続けた結果ではないか、と思われます。

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(注1)
Haldeikish Inscriptions。フンザからフンザ川を南岸に渡り1.5kmほど東に進むと、カラコルム・ハイウェイ沿いに無数の岩絵や碑文が彫られた岩が現れる。発見者のA.H. Daniによって「フンザの聖岩(Sacred Rocks of Hunza)」と命名されているが、主観が強すぎる名前であまり使いたくない。

西部ヒマラヤでは各地でお馴染みの原始的なアイベックスや狩人の岩絵から、クシャン時代のカローシュティー文字碑文、ブラフミー文字、アラビア文字、北魏使者が残した漢字碑文、カラコルム・ハイウェイ建設時の中国人労働者が残した漢字の落書き、パキスタン人のウルドゥ文字落書きまで、数千年に渡り彫り続けられてきた。

仏教への寄進を記す刻文が多く、かつては近くに僧院があったと推測されている。


ハルデイキシュ碑文

(注2)
Mayurithamの「tham」はブルシャスキー語で「王」のこと。この称号はバルティスタンの諸王国にも現れ、フンザ~ナガルとバルティスタンの結びつきの古さを示す証拠のひとつ。

(注3)
この口伝はDani(1991)より抜粋したものだが、この話には様々なヴァリエーションがあり、

・Biddulph(1880)前掲
・R.C.F.ショーンバーグ・著, 広島三朗・訳 (1985) 『中央アジア探検紀行 オクサスとインダスの間に』. pp.299. 論創社, 東京. ← 原版 : Reginald Charles Francis Schomberg (1935) BETWEEN THE OXUS AND THE INDUS. Martin Hopkinson, London.

などにも別ヴァージョンが報告されているので参照されたし。

(注4)
シャルワーズ・カミーズは前々回のギルギットの写真で男たちが着ている服。

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(追記)@2009/07/04

Maglot、Girkisのブルシャスキー語での意味を追加した。