2009年7月2日木曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(4) フンザ王国アヤシ朝

ここまでフンザ自体の歴史がちっとも出てこない、と不審に思うかもしれませんが、その通りで、ギルギットのトラカン朝から分かれて15世紀頃にフンザにアヤシ(Ayash)朝が、ナガルにマグロト(Maglot)朝が成立するまで、フンザ~ナガルの歴史というものはほとんど記録に残っていません。中国の求法僧旅行記や地理志にもフンザ~ナガルと特定できる場所は見あたりません。

フンザ近郊にあるハルデイキシュ碑文(注1)には、5~6世紀頃とみられる(おそらく字体より推測したもの)「rana」、「raja」、「maharajna」といった称号を持つ支配者らしき人名が現れます(Dani 1991)が、これがフンザのローカルな支配者であるのか、ギルギットを中心とした支配者であるのか、はたまた別の地域の支配者であるのか、わかりません。

7世紀以降、フンザ~ナガルはバルティスタン~ギルギットを支配するボロル(パトラ・シャーヒー朝)の支配下に入っていたと思われますが、具体的な支配体制などは謎のままです。

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現代まで王制が存続していたナガル王家(マグロト朝、1972年に王制廃止)とフンザ王家(アヤシ朝、1974年に王制廃止)とは、15世紀頃ギルギット・トラカン朝傍系の兄弟Jamshed(別名Maglot、ブルシャスキー語で「オスのマングース」の意味-追加@2009/07/04)とSahib Khan(別名Girkis、ブルシャスキー語で「ネズミ」の意味-追加@2009/07/04)がそれぞれナガルとフンザに代官として赴任し、以後その子孫が代々所領として引継ぎ、実質的に王国としてトラカン朝から独立するようになったものです。

ナガルとフンザは、マグロトとギルキス兄弟の頃から仲が悪く、初代フンザ王ギルキスはナガル勢によって暗殺されてしまいます。それ以来、両国の不仲は伝統的なものとなり、両国間ではたびたび戦争が起きていますし、住民同士の険悪な感情は今も続いています。

ナガル王家はマグロトの子孫ということですんなり系譜を追うことができますが、フンザ王家の方は王朝初期にちょっと紆余曲折を経ています。

フンザ初代の王ギルキスがナガル勢に暗殺された後、その子マユラ(Mayura)あるいは孫マユリタム(Mayuritham-注2)はワハーン谷に亡命し、その子あるいは孫アヤショ(Ayasho)の代にフンザに戻り王家を再興した、と口伝は伝えています(注3)。実質的にはこのアヤショが王家の祖なのでしょう。王朝名Ayashはこの王に因んでいます。

このアヤショはマユラの子とされる場合と、マユリタムの娘(名前不明)がワハーンの首長(Wali)に嫁いで生まれたとされる場合があります。後者の場合は、母方ではギルキスから続く血筋ではありますが、父方ではワハーン・ワリーの子になるわけで、実際ギルキスにつながる人物であったのか疑われます。本当のところは、ワハーン谷からやって来た(ギルキスとは無縁の)侵略者アヤショがフンザ王家を開いたのではないか?という可能性も考慮すべきかと思われます。Ayashはブルシャスキー語で「天」の意味であることも何やら意味深です。

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ナガル王家が代々バルティスタンと親しい関係にあったのに対し、フンザ王家の方は一貫して北の方を向いており、ワハーン谷やタリム盆地側のヤルカンドと親しい関係にありました。王家自身がワハーン谷勢力や、カラコルムの南へ移動してきたワヒー人と婚姻関係を結んでいるほどです。

ナガル人の形質がややモンゴロイド的である(チベット系民族であるバルティ人の血が混じっている)のに対し、フンザ人の形質は青い目・金髪がかった人も多く、きわめてコーカソイド的です。これが俗に云う「ギリシア人子孫説」の勢いを助長しているわけです。その形質をフンザ独特であるかのように伝える報告が多いのですが、実際はお隣りに住むワヒー人の形質と大差ないように感じます。

以前、ススト(カラコルム・ハイウェイのパキスタン側出入国管理所)で金色がかった髪・青い目で背も高くいかにも白人的な容貌ですがシャルワーズ・カミーズ(注4)を着た男を見て「へえ~パキスタンのこんなとこで地元に同化して働いてるヨーロッパ人もいるのかぁ。ガイドかな。」などと勘違いしたものでしたが、ワヒー語をしゃべっているのを聞いてはじめてワヒー人だと気づいたことがありました。

ギリシア人の末裔扱いで人気のフンザに対し、出自が明らかなワヒー人に対しては「ギリシア人の子孫?」という説は絶えて聞いたことがありません。この見方にはある偏ったフィルターがかかっているような気がしてなりません。

やはりフンザ人に見られるコーカソイド的な形質は、ブルショ人の出自をその方面に求めた上で(言語的にはたどれないが)、さらに長年ワハーン谷あるいはお隣りのワヒー人との交流を続けた結果ではないか、と思われます。

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(注1)
Haldeikish Inscriptions。フンザからフンザ川を南岸に渡り1.5kmほど東に進むと、カラコルム・ハイウェイ沿いに無数の岩絵や碑文が彫られた岩が現れる。発見者のA.H. Daniによって「フンザの聖岩(Sacred Rocks of Hunza)」と命名されているが、主観が強すぎる名前であまり使いたくない。

西部ヒマラヤでは各地でお馴染みの原始的なアイベックスや狩人の岩絵から、クシャン時代のカローシュティー文字碑文、ブラフミー文字、アラビア文字、北魏使者が残した漢字碑文、カラコルム・ハイウェイ建設時の中国人労働者が残した漢字の落書き、パキスタン人のウルドゥ文字落書きまで、数千年に渡り彫り続けられてきた。

仏教への寄進を記す刻文が多く、かつては近くに僧院があったと推測されている。


ハルデイキシュ碑文

(注2)
Mayurithamの「tham」はブルシャスキー語で「王」のこと。この称号はバルティスタンの諸王国にも現れ、フンザ~ナガルとバルティスタンの結びつきの古さを示す証拠のひとつ。

(注3)
この口伝はDani(1991)より抜粋したものだが、この話には様々なヴァリエーションがあり、

・Biddulph(1880)前掲
・R.C.F.ショーンバーグ・著, 広島三朗・訳 (1985) 『中央アジア探検紀行 オクサスとインダスの間に』. pp.299. 論創社, 東京. ← 原版 : Reginald Charles Francis Schomberg (1935) BETWEEN THE OXUS AND THE INDUS. Martin Hopkinson, London.

などにも別ヴァージョンが報告されているので参照されたし。

(注4)
シャルワーズ・カミーズは前々回のギルギットの写真で男たちが着ている服。

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(追記)@2009/07/04

Maglot、Girkisのブルシャスキー語での意味を追加した。

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