2014年12月30日火曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(14) カトマンドゥの生き女神Kumari-その1

・井田克征(いだかつゆき) (2014) 『世界を動かす聖者たち グローバル時代のカリスマ』(平凡社新書724). 239pp. 平凡社, 東京.

という本を読みました。あ、また平凡社新書だ。

タイトルだけ見ると、ローマ法王やイスラム教指導者、USAのテレビ伝導師あたりが出てきそうな雰囲気ですが、舞台はインド、ネパール限定。ちょっとタイトルに問題あり。もう少しわかりやすくしてほしい。

取り上げられているのは、クマリ、ダライ・ラマ法王、サティヤ・サイ・ババ、アンナー・ハザーレー、ババ・ラームデーヴ、アンベードカル。ヒンドゥ教と仏教関係ばかり(ハザーレーのみ厳密には宗教者ではない)。

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カトマンドゥ盆地の生き女神Kumari(कृमारी)が取り上げられているのが珍しいですね。

なお、Kumariの発音ですが、Devanagari文字表記をそのまま読むと「クマーリー」になります。しかし、ネパール語では長母音はあまり発音されない傾向があり、「クマリ」という表記が実際の発音に近いようです。アクセントは第2音節の「マ」にあります。私が聞いたところでは、「クマリ」と「クマーリ」の中間という感じ。

ただ、「クマリ」と表記すると、日本では「ク」にアクセントを置いて読む人が多く、ちょっと違和感があります。その意味では「クマーリ」と表記して、「マ」にアクセントが来るように操作してももいいかな、とも思いますね。

そういう表記論争は面倒なので、ここではKumariと表記しておきます。

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Kumariとは何か?ということについては、あちこちに解説がありますから、ここでは必要最小限の説明に留めます。

Kumariとは、ネパールのカトマンドゥ盆地で信仰されている少女の生神様。王家の守護女神タレジュの化身とされます。

Kumariはネワール人仏教徒カーストであるシャキャ氏族の幼女から選ばれます。任期は、怪我、歯の抜け変わり、初潮などで出血を見るまで。つまり長くとも十代はじめまでです。

Kathmandu、Patan、Bhaktapurなどに複数のKumariがいますが、最も有名なのが、KathmanduのRaj Kumari(Royal Kumari)。王家の守り神です。

Raj KumariはKathmanduの中心Durbar Squareの南はずれにあるKumari Chowk(クマリ館)に住んでいます。外出することはほとんどなく、一般人がそのお姿を見ることができるのはDasainやIndra Jatraなどの大祭時に限られます。

PatanやBhaktapurのKumariはRaj Kumariほど管理がきつくなく、自宅に住んだままKumariとして尊崇されています。

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Kumariに関する本・論文で私が持っているのは、
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・那谷敏郎 (1977) 『ネパールの生神様(クマリ) 聖域行2』(平凡社カラー新書73). 144pp. 平凡社, 東京.
・斎藤明俊 (1980) クマリ・プージャとマリ女神. 智山学報, vol.29(no.43) [1980/3], pp.65-80.
→斎藤(1984)に一部を改訂、収録
・斎藤昭俊 (1984) 第八 インドの女神信仰 一 クマーリー信仰. 斎藤昭俊 (1984) 『インドの民俗宗教』所収. pp.212-220. 吉川弘文館, 東京.
←斎藤(1980)の一部を改訂、収録
・トーマス・L・ケリー・写真, J・マイケル・ルーハン・文, 西奥史・訳 (1990) クマリ. 太陽, no.348 [1990/7], pp.85-92.
・寺田鎮子 (1990) ネパールの柱祭りと王権 インドラ・ジャートラ. DOLMEN, no.4 [1990/10], pp.151-174.
・Indra Majupuria & Patricia Roberts (1993) LIVING VIRGIN GODDESS : KUMARI : HER WORSHIP, FATE OF EX-KUMARIS & SCEPTICAL VIEW (KNOW NEPAL SERIES NO.9). 86pp. Smt. M.D. Gupta, Lashkar (India).
・寺田鎮子 (1994) 解説 クマリ信仰と本作品の関係について. ビジャイ・マッラ・著, 寺田鎮子・訳 (1994) 『神の乙女 クマリ 現代ネパール長編小説』(双書・アジアの村から町から14)所収. pp.257-279. 現代書館, 東京.
・寺田鎮子 (1995-96) ネパールの生き神・クマリ 1-3. 春秋, no.371 [1995/8・9], pp.33-36/no.373 [1995/11], pp.30-32/no.377 [1996/4], pp.9-12.
・吉崎一美 (1995) クマリとマヤ夫人. 密教文化, no.192 [1995/11], pp.33-19.
→再録:独立行政法人 科学技術振興機構 [JST]/J-STAGE(Japan Science and Technology Information Aggregator, Electronic 科学技術情報発信・流通総合システム) > 資料を探す 資料名別一覧 > ま-わ > 密教文化 > Vol.1995(1995) > クマリとマヤ夫人 吉崎 一美 PL33-L19 (公開日: 2010年03月12日)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/1995/192/1995_192_L33/_pdf
・磯忠幸 (1996) カトマンドゥ谷のクマリ ネパールの生ける女神に関する考察. 千里山文學論集, no.56 [1996/9], pp.148-94.
→再録:Tadayuki Iso / Les convulusion de la quotidienneté > Kumari > 論考 カトマンドゥ谷のクマリ -ネパールの生ける女神に関する考察- (as of 2014/12/06)
http://www006.upp.so-net.ne.jp/candoli/la_kumari.pdf
・寺田鎮子 (1996-98) ネパール宗教マンダラ1-5. 春秋, no.379 [1996/6], pp.17-20/no.382 [1996/10], pp.29-32/no.384 [1996/12], pp.29-32/no.387 [1997/04], pp.21-24/no.396 [1998/2・3], pp.16-19.
・寺田鎮子 (1997) 祭礼 インドラ・ジャトラと生き神クマリ. 石井溥・編 (1997) 『暮らしがわかるアジア読本 ネパール』所収. pp.292-299. 河出書房新社, 東京.
・吉崎一美 (1998) 第四章 儀礼と行事 六 インドラ・ジャトラ. 田中公明+吉崎一美 (1998) 『ネパール仏教』所収. pp.224-228. 春秋社, 東京.
・植島啓司 (2000) VII 変わりゆくメディアと精神世界 55 クマリ信仰. (社)日本ネパール協会・編 (2000) 『エリアスタディーズ ネパールを知るための60章』所収. pp.242-245. 明石書店, 東京.
・NHK「アジア古都物語」プロジェクト・編 (2002) 『NHKスペシャル アジア古都物語 カトマンズ 女神への祈り』. 202pp. 日本放送出版協会, 東京.
・植島啓司 (2002) 祈りの原風景1-3. NHK「アジア古都物語」プロジェクト・編 (2002) 『NHKスペシャル アジア古都物語 カトマンズ 女神への祈り』所収. pp.18-21, 62-65, 92-95. 日本放送出版協会, 東京.
・前田知郷 (2003) ネパールにおける女神信仰研究(修士論文要旨). 龍谷大学大学院文学研究科紀要, no.25 [2003/10-12], pp.228-231.
→再録:龍谷大学 > 図書館 > 龍谷大学学術機関リポジトリ R-SHIP > このリポジトリのコミュニティ 030 紀要論文 : Departmental Bulletin Paper [4893] > 龍谷大学大学院文学研究科紀要 [517] > 第25集 [96] > 発行日:10-12月-2003 / タイトル:ネパールにおける女神信仰研究 / 著者:前田, 知郷 > ファイル:KJ00000737966.pdf (as of 2014/12/07)
http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/4425/1/KJ00000737966.pdf
・前田知郷 (2007) ネパールにおけるクマリ信仰について. 東海佛教, no.52 [2007/3], pp.168(51)-152(67).
・前田知郷 (2009) ダサイン祭におけるクマーリー・プージャー. 東海佛教, no.54 [2009/3], pp.96(23)-80(39).
・前田知郷 (2010) ネパールにおけるクマリ崇拝について. 印度學佛教學研究, vol.58, no.2(total no.120)[2010/03], pp.1116-1111.
→再録:国立情報学研究所(NII)/CiNii 日本の論文をさがす Article > ネパールにおけるクマリ崇拝について / 前田 知郷 / 印度學佛教學研究 58(2), 1116-1111, 2010-03-20 > CiNii PDF – オープンアクセス (as of 2014/11/08)
http://ci.nii.ac.jp/els/110007573626.pdf?id=ART0009397773&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414840153&cp=
・寺田鎮子 (2011) ネパールの女神の大祭 ダサインの考察. 吉田敦彦+松村一男・編著 (2011) 『アジア女神大全』所収. pp.378-401. 青土社, 東京.
・沖田瑞穂 (2011) アジアの女神小事典 クマリ(Kumārī). 吉田敦彦+松村一男・編著 (2011) 『アジア女神大全』所収. p.409. 青土社, 東京.
・Jeffrey S. Lidke (2011) 7 Kumārī : Nepal's Eternally Living Goddess. IN : Patricia Monaghan (ed.) (2011) GODDESS IN WORLD CULTURE : VOLUME 1 : ASIA AND AFRICA. pp.85-98. Praeger, Santa Barbara.
・前田知郷 (2012) ネパール 玉座の少女 クマリ. 立川武蔵・編(2012) 『アジアの仏教と神々』所収. pp.46-65. 法藏館, 京都.
・井田克征 (2014) 第二章 クマリ 生ける女神の伝説は現代を生き残れるか. 井田克征 (2014) 『世界を動かす聖者たち グローバル時代のカリスマ』(平凡社新書724)所収. pp.35-65. 平凡社, 東京.
・植島啓司 (2014) 『処女神 少女が神になるとき』. 316pp. 集英社, 東京.
←植島(2005-07)後述を増補改訂
・マイケル・R・アレン・著, 磯忠幸・訳 (before 2014) クマリ信仰 ネパールにおける処女崇拝(1992年頃の試訳). 98pp.
Tadayuki Iso / Les convulusion de la quotidienneté > Kumari > 翻訳 マイケル・R・アレン著 クマリ信仰 –ネパールにおける処女崇拝- (as of 2014/12/06)
http://www006.upp.so-net.ne.jp/candoli/allen_cultofkumari.PDF
←英語原版:Allen(1986?)後述
・磯忠幸 (before 2014) Une liste de la lecture as sujet de Kumari クマリ研究に関する文献リスト.
Tadayuki Iso / Les convulusion de la quotidienneté > Kumari > クマリ研究に関する文献リスト (as of 2014/12/06)
http://www006.upp.so-net.ne.jp/candoli/kumari_list.htm

この他、Kumariに関する文献で重要なもの(未見)は、

・Michael R. Allen (1975) THE CULT OF KUMARI : VIRGIN WORSHIP IN NEPAL. 67pp.+pls. Institute of Nepal and Asian Studies, Tribhuvan University, Kathmandu.
→ (1986?) 2nd Edition. 114pp.+pls. Madhab Lal Maharjan / Himalayan Booksellers, Kathmandu.
→ (1996) 3rd Revised and Enlarged Edition. viii+157pp.+pls. Mandala Book Point, Kathmandu.
→ アレン・著, 磯・訳 (before2014)は2nd Editionの和訳
・J.C. Regmi (1991) THE KUMARI OF KATHMANDU. 64pp.+pls. Heritage Research, Kathmandu.
・植島啓司 (2002) 『ネパールにおける生き神信仰の研究』. 文部省科学研究費補助金研究成果報告書.
・Rashmila Shakya & Scott Berry (2005) FROM GODDESS TO MORTAL : THE TRUE LIFE STORY OF A ROYAL KUMARI. 152pp.+pls. Vajra Publications, Kathmandu.
・植島啓司 (2005-07) 処女神1-20. 青春と読書, vol.40, no.11 [2005/11] – vol.42, no.6 [2007/6].
→植島(2014)に増補改訂の上収録

ネパール紀行の一部でKumariにちょっとだけ触れているものはたくさんありますが、きりがないので今回は省略します。

本題に入る前に、文献紹介で1回終わってしまいました。

今回改めて手元になかったものも集めてみたんですが、調べれば調べるほど芋づる式に文献が出てくるので、なかなか終わりませんでした。さらに増補があるかもしれません。

2014年8月28日木曜日

ヒマーチャル小出し劇場(18) 毎朝これ食ってました

LahaulはKeylong केलंग(ཁྱེ་ལང་ khye lang)のポロンタ屋。掘っ建て小屋です。















Keylongに長逗留している間は、ここでポロンタを2枚食ってチャイを飲んでから調査に出かけるのが日課。時々オムレツも頼んだなあ。なかなかうまいのですよ。全然飽きなかった。

汚い格好してますが、スーツが似合いそうなダンディーなオヤジさん。10年以上前なので、今はもういないでしょうが。

2014年8月21日木曜日

ヒマーチャル小出し劇場(17) Kunuのカッコイイじいさん

Kunuとはチベット文字だとཀུ་ནུ་ ku nu。そのまんまですね。キナウルのチベット語での呼び名はཁུ་ནུ་ khu nuですが、それとどういういう関係にあるのか定かではありません。

Kinnaurのチベット側奥地にある村ですが、ルートからはちょっとはずれるので、行った人はまずいないでしょう。ここまで来るとSutlej河よりもチベットとの国境の方が近い。よって、言葉はキナウル語ではなくチベット語(ニャム語)。ゴンパもあります。



















そこで会ったのがこのじいさん。カイゼルひげが素晴らしい!背も高いし、物腰も終始クール。テンガロン・ハットが似合いそうなカッコイイじいさんでした。

2014年8月17日日曜日

『チベット死者の書』のチベット語スペル

あんまりチベットものから遠ざかると、忘れてしまいそうなので、リハビリしておきましょうか。

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『チベット死者の書』こと『バルド・トゥードル』のチベット語・文字スペルについて。

これは、チベット語では『བར་དོ་ཐོས་གྲོལ། bar do thos grol/』。

「bar do」は、漢語では「中有(ちゅうう)」あるいは「中陰(ちゅういん)」。死から転生あるいは解脱するまでの間の四十九日のことです。

「生有(しょうう、生まれる瞬間)」→「本有(ほんぬ、生きている間)」→「死有(しう、死ぬ瞬間)」→「中有(ちゅうう)」→元へ戻る

と回ります。これを「四有(しう)」と言います。「輪廻転生」でもいいでしょう。

しかし「死有」以外、スラスラ出てくるGoogle IMEはやっぱりすごい(スマホ版はダメだけど)。

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「bar」は形容詞で、「間の」という意味。「do」は「二つ一組」の意味。つまり「bar do」は「死有と生有の二つの間」という意味になります(注1)。「bar ma do」と記されることもあります。

「thos」は「thos pa」。他動詞「聴く」です。音や言葉が勝手に耳に入ってくる(聞こえる)「nyan pa」と違い、「積極的に聞く」というニュアンス。

「grol」は自動詞「grol ba」。もともとは「解放される」「自由になる」という意味ですが、転じて仏教用語として「救済される」「解脱する」という意味で使われることが多いです。

「སྒྲོལ་མ་ sgrol ma(多羅菩薩)」の「sgrol ba」は、「grol ba」が他動詞化したもので、「救う」「救済する」になります。

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「thos grol」と続けると、「聴聞することにより解脱する」という意味になります(注)。省略を排してより正確に記すと「thos pa dang grol」。

生前充分に修行を積んだ人であれば、息を引き取ってすぐ解脱できるのですが、凡夫はそうはいきません。そこで、中有の間四十九日間、お経を読み聞かせ、解脱へと導くのが『bar do thos grol/』の役割です。

今生での解脱への最後のチャンス、というわけです。

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日本仏教には「戒名」というものがあります。これは、俗人を死後受戒させ、出家したものとして「法名」を贈るものです。日本独自の仏教風習らしいです。

日本仏教では、死後最初に読まれるのが「枕経」です。これは「受戒」=「仏門への入門」のためのお経ということなのでしょう。

通夜・葬儀の間、さらに初七日法要、四十九日法要と数多くのお経が読まれます。その過程で故人は解脱へ導かれ、仏の待つ極楽浄土へ送られる、というシステムです。中有の期間が終わる四十九日目に解脱できるのか、輪廻に回るのかが判定されます。

日本仏教では「成仏」という概念があります。仏教徒の故人は、その葬儀の過程で、四十九日の後、例外なく解脱したとみなされます。故人をみな「仏」と呼ぶのはそういうことですね。

「枕経」と呼ばれるのは、死後最初に読まれるお経だけで、葬儀中の一連のお経は「枕経」とは呼ばれないようです。

そういうわけで、中有の間中、受戒から解脱までを一手に引き受けるお経『bar do thos grol/』を「枕経」と呼ぶのは、ふさわしくないかもしれません。

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チベット仏教では、生前充分な修行をしていない凡夫は、中有の間にお経を聴いたくらいではそう簡単に解脱はできない、とされるようです。『bar do thos grol/』を聞かされても、ほとんどの故人は解脱に至らないのです。

ならば、ということで、『bar do thos grol/』の後半では、解脱へと導くのはあきらめてしまいます。どうせ転生してしまうのならば、より良い転生へと故人を導こうとするのです。

「六道(りくどう)」という仏教用語があります。チベット語では「འགྲོ་བ་རིགས་དྲུག 'gro ba rigs drug」。天道(仏の世界)、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つです。

『bar do thos grol/』では、転生するにしても人間道よりも劣る四道へ転生してしまうのを防ぐ内容のお経を読みます。

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こうして四十九日後には、故人はどこかで人間として受胎しただろう、とみなされます。実際はどこに転生したのかはわからないので、期待にすぎないのですが。ここで『bar do thos grol/』の役割は終わりです。

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『bar do thos grol/』は14世紀のニンマパ僧 གཏེར་སྟོན་ཀརྨ་གླིང་པ་ gter ston karma gling pa テルトン・カルマ・リンパ[1326-86]によって、དྭགས་པོ་ dwgas poのསྒམ་པོ་གདར་གྱི་རི་ sgam po gdar gyi riで発見した、とされます。

カルマ・リンパが発見したとされる埋蔵経典は膨大な数にのぼり、それらは『ཀར་གླིང་ཞི་ཁྲོ། kar gling zhi khro/(カルマ・リンパの寂静尊・忿怒尊)』としてまとめられています。

その中の経典群『ཟབ་ཆོས་ཞི་ཁྲོ་དགོངས་པ་རང་གྲོལ། zab chos zhi khro dgongs pa rang grol/(深遠なる教え、寂静尊・忿怒尊の瞑想により自ずから解脱する)』中の一部が『bar do thos grol/』になります。

正式名称は、

・གཏེར་སྟོན་ཀརྨ་གླིང་པ་ gter ston karma gling pa (14C中頃?) 『ཆོས་ཉིད་བར་དོའི་ཐོས་གྲོལ་ཆེན་མོ། chos nyid bar do'i thos grol chen mo/(法性たる中有における聴聞による大解脱)』または『སྲིད་པའི་བར་དོ་ངོ་སྤྲོད་གསོལ་འདེབས་ཐོས་གྲོལ་ཆེན་མོ། srid pa'i bar do ngo sprod gsol 'debs thos grol chen mo/((有の狭間なる)中有への入口の祈り、聴聞による大解脱)』。

著者は8世紀のインドの密教行者पद्मसम्भवPadmasambhava(པདྨ་འབྱུང་གནས་ padma 'byung gnas/གུ་རུ་རིན་པོ་ཆེ་ gu ru rin po che)と明妃 ཡེ་ཤེས་མཚོ་རྒྱལ་ ye shes mtsho rgyalとされますが、定かではありません。

ニンマパに伝わる経典ですが、カギュパでも利用されています。

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『ゲルクパ版 死者の書』というものもあります。しかしこれはニンマパ版とは異なり、修行者が生前に学習するものとなっています。枕経的なものではありません。

・ཨ་ཀྱ་ཡོངས་འཛིན་བློ་བཟང་དོན་གྲུབ་དབྱངས་ཅན་དགའ་བའི་བློ་གྲོས་ a kya yongs 'dzin blo bzang don grub dbyangs can dga' ba'i blo gros [1740-1827] (18C末?) 『གཞིའི་གསུམ་གྱི་རྣམ་གཞག་རབ་གསལ་སྒྲོན་མེ། gzhi'i sku gsum gyi rnam gzhag rab gsal sgron me/(基本の三身の構造をよく明らかにする燈明)』.

ただし、『bar do thos grol/』の方も、本来は修行者が生前に学習する目的で作られた経典だったようですが、いつの間にか枕経的な使い方をされるようになったらしいです。

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参考:
・川崎信定・訳 (1989) 『原典訳 チベットの死者の書』. pp.214+pls. 筑摩書房, 東京.
→ 再発 : (1993) pp.243+pls. 筑摩書房(ちくま学芸文庫), 東京.
・日本放送協会 (1993) NHKスペシャル チベット死者の書(1) 仏典に秘めた輪廻転生/(2) ドキュメンタリードラマ 死と再生の49日. [映像]
→ ビデオ化 : (1994) NHKソフトウェア, 東京/同朋舎出版, 東京.
→ DVD化 : (2009) NHKエンタープライズ, 東京/ウォルトディズニースタジオホームエンターテイメント, 東京(ジブリ学術ライブラリー).
・河邑厚徳+林由香里 (1993) 『チベット死者の書 仏典に秘められた死と転生 NHKスペシャル』. pp.270. 日本放送出版協会, 東京.
→ 再発 : (1995) pp.365. 日本放送出版協会(NHKライブラリー), 東京.
・中沢新一 (1993) 『三万年の死の教え チベット『死者の書』の世界』. pp.199. 角川書店, 東京.
→ 再発 : (1996) pp.186. 角川書店(角川文庫), 東京.
・ヤンチェン・ガロ・撰述, ラマ・ロサン・ガンワン・講義, 平岡宏一・訳 (1994) 『ゲルク派版 チベット死者の書』. pp.236. 学習研究社, 東京.
→ 再発 : (2001) 学習研究社(学研M文庫), 東京.
・Bryan Jaré Cuevas (2000) THE HIDDEN TREASURES OF SGAM-PO-GDAR MOUNTAIN : A HISTORY OF THE ZHI-KHRO REVELATION OF KARMA-GLING-PA AND THE MAKING OF TIBETAN BOOK OF DEAD. pp.viii+540. University of Virginia (博士論文), Charlottesville(VA).
http://vajrayana.faithweb.com/The%20hidden%20treasures%20of%20Sgam-po-gdar%20Mountain%20A%20history%20of%20t.PDF

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(追記)2014/08/20

(注1)を加えた。よって(注)は(注2)になった。

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(注1)

「do(二つで一組)」は、「死有」と「生有」ではなく、二つの「本有」、の方がふさわしそうですね。

(注

「thos grol」は「聴いて解脱する」ですが、「見て解脱する」もあります。こちらは「མཐོང་གྲོལ་ mthong grol トンドル」と言います。

年に一度(あるいは数年に一度)ご開帳される仏像や大タンカは、めったに拝観する機会のないもので、拝観できれば霊験あらたかとされています。

まあ実質的には、これを見ただけで一発で解脱できる、などとお手軽に考えている人は、チベット人でもほとんどいないと思いますが。こういった経験を重ねることで功徳を積み上げる、という意識が強いと思われます。

2014年7月4日金曜日

ヒマーチャル小出し劇場(16) 遊園地?いいえ、お寺です











前衛建築はたまた娯楽施設かと見紛うようなド派手な建物。

これはマンディー(मण्डी Mandi)の町外れにあります。ビーマカーリー・マンディル(भीमकाली मंदिर Bhimakali Mandir)。

ヒマーチャルの新築寺院はやりたい放題。宮大工天国です。

2014年6月25日水曜日

Google IMEと日本史用語

中国史、仏教と来たら、日本史もやらなきゃいけませんかねえ。

得意分野ではないのであまりやる気は出ないのですが、どうもGoogle IMEで日本史用語を試したサイトが見当たらなかったのでやってみます。

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源実朝(みなもとのさねとも) 狗奴国(くぬこく) 神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと) 彦火火出見命(ひこほほでみのみこと) 素盞嗚命(すさのおのみこと) 天之日矛(あめのひぼこ) 和気清麻呂(わけのきよまろ) 続日本記(しょくにほんぎ) 犬上御田鍬(いぬがみのみたすき) 狩野元信(かのうもとのぶ) 日本霊異記(にほんりょういき) 伴善男(とものよしお) 橘諸兄(たちばなのもろえ) 新撰姓氏録(しんせんしょうじろく) 往生要集(おうじょうようしゅう) 頼山陽(らいさんよう) 冷泉為相(れいぜいためすけ) 護良親王(もりながしんのう) 関東管領(かんとうかんれい) 後土御門天皇(ごつちみかどてんのう) 物部尾輿(もののべのおこし) 物部麁鹿火(もののべのあらかひ) 陶晴賢(すえはるかた) 嘉吉の変(かきつのへん) 曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん) 最上義光(もがみよしあき) 前野良沢(まえのりょうたく) 菱垣廻船(ひがきかいせん) 曾我蕭白(そがしょうはく) 荻生徂徠(おぎゅうそらい) 前島密(まえじまひそか) 浜口雄幸(はまぐちおさち) 神皇正統記(じんのうしょうとうき) 御成敗式目(ごせいばいしきもく) 斎藤龍興(さいとうたつおき) 大友宗麟(おおともそうりん) 円山応挙(まるやまおうきょ) 久坂玄瑞(くさかげんずい) 蛤御門の変(はまぐりごもんのへん) 聞得大君(きこえおおきみ) 舜天王(しゅんてんのう) 阿弖流爲(あてるい) 母禮(もれ) 箕作阮甫(みつくりげんぽ) 高師直(こうのもろなお) 平田靫負(ひらたゆきえ) 荷田春満(かだのあずままろ) 

なんだか難読人名変換トライアルになってきたな(笑)。

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少なくとも私程度が使う分には、日本史分野でも充分使いでがあることがわかりました。

でも、大石凝真素美(おおいしごりますみ)は無理だったな(笑)。平群真鳥(へぐりのまとり)、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)あたりも出てほしいところです。

地名がほとんど変換できるのは、やらなくてもわかっているのでやりません。人名よりも日本地名のほうが使いでがあるのかもしれませんね。

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あと有名なのは、西暦を入力すると日本の年号が出てくること。

「1026ねん」と入力すると「万寿三年」と出ます。やあ、これは便利。「1868ねん」では、ちゃんと「明治元年」と「慶応四年」の両方が出ます。

では南北朝時代はどうでしょう。「1340ねん」では、南朝の「延元五年」と「興国元年」、さらに北朝の「暦応三年」まで出ます。素晴らしい。

この機能は中国史にもほしいなあ。でも五胡十六国時代あたりがややこしいですね。同じ年に年号が十個もあったりするし。どれがどの国の年号かもわからない。

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なお、「645ねん」=「大化元年」の前は年号は出ません。天皇の年号が出てもいいんだが、それ以前は「日本書紀の年代がどれくらい信用できるのか?」という問題に立ち入ることになるので、関わらないことにしたと思われます。

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「2014ねん」=「平成二十六年」は当然ですが、「2015ねん」=「平成二十七年」まで出ます。じゃ、これはどこまで行くのかな?

「2016ねん」=「平成二十八年」。
「2020ねん」=「平成三十二年」。

まだ行けそう。

「2030ねん」=「平成四十二年」。
「2040ねん」=「平成五十二年」。
「2050ねん」=「平成六十二年」。
「2051ねん」=「2051年」。

ここで終わりです。まあ、切りのいい所でやめたって感じですね。

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こうなると、いろいろな分野で変換を試したくなります。現在仕事で使っているとってもマイナーな用語が一発変換できているので、かなりおもしろそうなのはわかっているのですが、こればっかりやっていると先に進めなくなります。

というわけで、Google IMEシリーズはこれでおしまい。

2014年6月21日土曜日

Google IMEと仏教用語

次にGoogle IMEで仏教用語を試してみました。

灌頂(かんじょう) 閻浮提(えんぶだい) 脇侍(きょうじ) 點心(てんじん) 法界(ほっかい) 僧伽(そうぎゃ) 阿頼耶識(あらやしき) 舎利佛(しゃりほつ) 習気(じっけ) 預流(よる) 三世仏(さんぜぶつ) 胎蔵界(たいぞうかい) 般若波羅蜜多(はんにゃはらみた) 白毫(びゃくごう) 触地印(そくちいん) 虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ) 金剛薩埵(こんごうさった) 荼枳尼(だきに) 善財童子(ぜんざいどうじ) 有情(うじょう) 沙羅双樹(しゃらそうじゅ/さらそうじゅ) 発願(ほつがん) 四依(しえ) 無礙(むげ) 大印契(だいいんけい) 毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ) 結縁(けちえん) 羯磨金剛(かつまこんごう) 施餓鬼会(せがきえ) 優婆塞(うばそく) 楞伽経(りょうがきょう) 阿字観(あじかん) 微細身(みさいしん) 施無畏(せむい) 結跏趺坐(けっかふざ) 閼伽(あか) 頓悟(とんご) 阿毘達磨(あびだるま) 倶舎論(ぐしゃろん) 時輪(じりん) 悪趣(あくしゅ) 大般涅槃経(だいはつねはんぎょう) 秘密集会(ひみつしゅうえ) 摩訶衍(まかえん) 馬鳴(めみょう) 龍樹(りゅうじゅ) 四弘誓願(しぐぜいがん) 須臾(しゅゆ) 貝多羅(ばいたら) 阿閦如来(あしゅくにょらい) 尼連禅河(にれんぜんが) 羅睺羅(らごら) 維摩経(ゆいまぎょう)

きりがないのでこれでやめますが、仏教用語でもかなり使えることがわかります。

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いや、もちろん完璧ではありません。私が試したものでは変換成功率は8割位です。特にサンスクリット語音写漢字の成績はあまりよくない。

プロ(僧侶・仏教学者)にとっては、「あれも出ない、これも出ない、使い物にならん」でしょうが、アマチュアが仏教用語を扱う程度であれば、もう充分すぎます。とかく読みの難しい仏教用語を登録していく手間を考えたら、もう夢のようです。

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ただし、仏教用語は呉音が多く、通常の音と異なるものがかなりあります。そもそも読みがわからないので、漢字を一個一個拾って入力。あるいは読みを間違って覚えているので正しい漢字が出てこない、というケースが多いと思います。

漢字の字面から発音を教えてくれればもっといいのですが(注)、それはもうIMEの守備範囲外ですね。

でもGoogleなら、これもいずれやってしまいそうな気もする。そうなると、漢字辞典・中国語辞典周辺の検索システムが根本からくつがえるかもしれない。ちょっとワクワクするなあ。

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(注)

こうしてみると、仏教用語の読みって、「チベット文字→どう発音するの?」とあまり変わらないレベル。

ということは、漢字の字面から発音が楽に拾えるようになれば、次はチベット文字の上にカーソルを置くとチベット語(ウー・ツァン方言)発音が出てきて、ユーザー辞書を変えるとラダック語発音が出てくる、なんてのも可能になるかも。

そのためにやらなきゃならない仕事が膨大なのはわかってますが、明るい未来への妄想は楽しいものです。

2014年6月17日火曜日

Google IMEと中国史用語

MS IMEのユーザー辞書が吹っ飛びました。リカバー不能。

使い勝手の悪いMS IME(注1)に嫌気がさしていたところでもあるので、別のシステムに乗り換えを決定。

ATOKに戻ろうかとも思ったのですが、「そういえばGoogle IMEってのもあったな」と、タダなので軽い気持ちでGoogle IMEをダウンロードしてみました。

で、目ぼしい単語をシコシコ登録し始めたのですが、なんか変なんですよ。登録しなくとも出てくる単語がやたらある。

「ああ、これが例の・・・」と思い出しました。Google IMEが固有名詞にやたら強いという噂を。

今回は中国史用語に焦点を絞りますが、他の分野でもきっと驚くようなマニアック変換が見られるのでしょう。

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「Google IMEと中国史」というテーマでは、中国史の達人の方々が何年も前に試してリポートしておられます。

・nagaichi/枕流亭ブログ > 2009-12-04 「Google 日本語入力」を試してみた(中国史篇)
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20091204/p1
・宣和堂/宣和堂遺事 宣和堂の節操のない日記 > Google日本語入力(2009/12/05)
http://sengna.com/2009/12/05/googlejapanie/

そこでは、Google IMEの実力は認めておられるものの、すでに膨大な単語登録を済ませてある自前のユーザー辞書を超えるものではなく、あわてて乗り換えるほどではない、といった評価ですね。

でも私のようにユーザー辞書をまるごと失った人には、これは使いでがあります。なにせ今まで手打で登録していた単語の多くが、すでに登録されているんですから。

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私の場合はというと、

「玄奘(げんじょう)」「鳩摩羅什(くまらじゅう)」。この辺がちゃんと出てきたあたりでは「ほー、なかなかやるな」程度でしたが・・・

「吐谷渾(とよくこん)」が一発変換されるに至り、「むむむ、これは・・・」に変わり・・・

「愛新覚羅(あいしんぎょろ)」で顔色を失いました。

そして「上京会寧府(じょうけいかいねいふ)」の一発変換で大爆笑。

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あまりにおもしろいので、思いついた固有名詞をどんどん変換してみると・・・・これは爆笑に次ぐ爆笑です。なんでこんなのまで出るの?というマイナー固有名詞までどんどん出る。

ただただ羅列してみますが、もうおもしろくておもしろくて、それだけで数時間。

康有為(こうゆうい) 朱元璋(しゅげんしょう) 烏魯木斉(うるむち) 道武帝(どうぶてい) 子路(しろ) 公冶長(こうやちょう) 史朝義(しちょうぎ) 寧宗(ねいそう) 伍子胥(ごししょ) 龐涓(ほうけん) 忠烈王(ちゅうれつおう) 汴京(べんきょう) 沙陀突厥(しゃだとっけつ) 奄蔡(えんさい) 咸豊帝(かんぽうてい) 北虜南倭(ほくりょなんわ) 林則徐(りんそくじょ) 献文帝(けんぶんてい) 海陵王(かいりょうおう) 沮渠蒙遜(そきょもうそん) 赫連勃勃(かくれんぼつぼつ) 冉閔(ぜんびん) 慕容廆(ぼようかい) 慕容垂(ぼようすい) 完顔阿骨打(わんやんあぐだ) 耶律阿保機(やりつあほき) 李存勗(りそんきょく) 牛僧孺(ぎゅうそうじゅ) 大祚榮(だいそえい) 蚩尤(しゆう) 啓民可汗(けいみんかがん) 伊尹(いいん) 饕餮(とうてつ) 福康安(ふくこうあん) 琅邪郡(ろうやぐん) 大戴礼記(だたいらいき) 華陽国志(かようこくし) 和氏の璧(かしのへき) 炎帝神農(えんていしんのう) 伏羲(ふくぎ) 女媧(じょか) 黄帝軒轅(こうていけんえん) 蒼頡(そうけつ) 后稷(こうしょく) 公孫無知(こうそんむち) 闔閭(こうりょ) 夫差(ふさ) 勾践(こうせん) 犬戎(けんじゅう) 臨淄(りんし) 邯鄲(かんたん) 粛慎(しゅくしん) 悪来(おらい) 孺子嬰(じゅしえい) 霍去病(かくきょへい) 安慶緒(あんけいちょ) 李継遷(りけいせん) 耶律大石(やりつたいせき) 衛紹王(えいしょうおう) 陳友諒(ちんゆうりょ) 明玉珍(めいぎょくちん) 隆武帝(りゅうぶてい) 張献忠(ちょうけんちゅう) 洛陽伽藍記(らくようがらんき) 携王(けいおう) 斉民要術(せいみんようじゅつ) 竹書紀年(ちくしょきねん) 逸周書(いっしゅうしょ) 顧愷之(こがいし) 慕容皝(ぼようこう) 李茂貞(りもてい) 大明一統志(だいみんいっとうし) 西廂記(せいしょうき) 六盤山(ろくばんざん) 淮南子(えなんじ) 丘処機(きゅうしょき) 褚遂良(ちょすいりょう) 章炳麟(しょうへいりん) 孔頴達(こうえいたつ) 冀州(きしゅう) 堅昆(けんこん) 嬴政(えいせい) 挹婁(ゆうろう) 回鶻(かいこつ) 回紇(かいこつ) 賀蘭山(がらんさん) 彝族(いぞく) 大興安嶺(だいこうあんれい) 飲膳正要(いんぜんせいよう) 蘭亭序(らんていじょ) 

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この辺でやめますが、あーおもしろい。

このあたりの単語は、今まで全部手で登録していたわけですから、その重労働が一気になくなるのです。特に「嬴」だの「媧」だの、単漢字として出すだけでも一苦労する連中が楽々出てくるのですから、そのストレス解放度は相当なものです。

もう決めました。今後Google IME一本で行きます(注2)。

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ただし、私がよく使うチベット関係、モンゴル関係はほぼ全滅です。

拉薩(らさ) 達頼喇嘛(だらいらま) 忽必烈(くびらい/ふびらい) 察合台(ちゃがたい) 呼和浩特(ふふほと)

すら出ません。

でも、それ位ならいくらでも入力しますよ。楽なもんです。

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また、Google IMEはセキュリティ上の問題もないとは言えないようで、導入時にはちょっとした注意が必要です。

・IPA Better Life with IT 情報処理推進機構 > 情報セキュリティ > 2014年2月の呼びかけ 「知らない間に情報を外部に漏らしていませんか?」 ~クラウドサービスを利用する上での勘所~ (2014/02/04)
http://www.ipa.go.jp/security/txt/2014/02outline.html

この辺を参考にしながら、注意して使いましょう、ということですな。

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次に『水滸伝』の人名で試してみましょう。

李逵(りき) 呼延灼(こえんしゃく) 皇甫端(こうほたん) 王定六(おうていろく) 魯智深(ろちしん) 単廷珪(たんていけい)←ホントは「ぜんていけい」なんだけどなあ

全部一発変換(笑)。もう十分だな。

で、「もしかして・・・・」と、アダ名を入力してみると・・・

花和尚魯智深(かおしょう・・・) 豹子頭林冲(ひょうしとう・・・) 入雲龍公孫勝(にゅうんりゅう・・・) 九紋龍史進(くもんりゅう・・・)

もうアダ名を入力するだけで、名前がどんどん出てきます(笑)。これは便利・・・なのか?

「アダ名→名前」の変換が効くのは一部だけにしろ、とにかく大笑いできるのは間違いありません。

「及時雨(きゅうじう)」は出るけど、「宋江」は続いて出て来ない(笑)。「呼保義(こほぎ)」などはそれ自体出もしない。宋江はやっぱり人気ないね。

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ちょっと現代人もやってみましょう。

鄧小平(とうしょうへい) 趙紫陽(ちょうしよう) 胡錦濤(こきんとう) 習近平(しゅうきんぺい) 李克強(りこくきょう)

Google IMEは、検索エンジンGoogle上での入力結果をデータベースとしているらしいので、まあこの辺は楽勝でしょう。

「鄧小平」が一発で出てくれるのは素晴らしい。だけど単漢字では「鄧」は出ないんだな・・・。

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じゃ、コリアン固有名詞をコリア語読みで入力したら?

李承晩(いすんまん) 盧泰愚(のてう) 朴槿恵(ぱくくね) 金日成(きむいるそん) 金正恩(きむじょんうん) 新羅(しるら) 高句麗(こくりょ) 鬱陵島(うるるんど)

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ああ、もう疲れた。

Google IMEの話はもう少し続きます。

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(注1)

でもMS IMEは、「手書き文字認識」は優秀。これだけは今後も使おうと思っています。特に簡体字で。

(注2)

15年ほど前に検索エンジンGoogle が登場した時、その他の検索エンジンが一気に使われなくなりました。当然でしょうね。Google が出るまでは、検索結果の7~8割は目標と無関係のゴミだったんですから。

日本語入力の世界でもまたGoogleが一気に制圧してしまうかもしれません。といっても現れてからすでに5年か・・・。Google IMEの利用価値は、未だあまり知られていないかもしれませんね。

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(追記)@2014/06/29

こりゃいいわ、とスマホの入力システムにもGoogle IMEを入れたのですが、こっちは全然変換してくれません。実に平凡なIME。どうもパソコン版とは辞書が違うようです。

ガッカリ。どうなってんの???

2014年6月14日土曜日

ヒマーチャル小出し劇場(14) お城?シュリング・リシ・マンディル

クッルー県最南端バンジャール(बन्जार Banjar)。旅行者はほとんど行かない町です。そのバンジャールから数km山に入ると忽然と現れるのが、このシュリング・リシ・マンディル(शृंग ऋषि मंदिर Shring Rishi Mandir)。



日本人なら一目見て笑みが漏れるでしょう。まるで日本の「お城」なんですから。といっても石垣や堀はありませんから、天守閣だけですが。

よくよく見ると、建築スタイルはヒマーチャルによくある角塔寺院です。でも白塗りの壁が目立ち、それに加えて反り屋根に入母屋作り、とお城を思わせる意匠満載。壁のシンボル(何だかわかりません)も家紋を思わせます。

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この寺院は聖仙シュリンガ(ऋष्यशृंग Rishyashringa)を祀っています。聖仙シュリンガは、女色に迷って神通力を失った仙人として有名。

この神話は仏教のジャータカにも採用されました。さらに漢訳仏典として日本に渡り、『今昔物語』にも収録されます。そして謡曲・能の作品にもなりました。いわゆる一角仙人です。

では、ここが聖仙シュリンガ神話発祥の地か、というとそうではなさそう。聖仙シュリンガを祭った寺院でもっとも有名なのは、カルナータカ州Shringer近郊Kiggaです。どちらも神話を取り入れただけでしょうね。

神谷武夫先生の研究によれば、リシ(聖仙)を祀った寺院は、もともとは蛇神(ナーガ/ナーグ नाग Naga/Nag)の寺院であったケースが多いとのこと。Shring Rishi Mandirもそうなのかもしれません。

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この寺院が特異なのは、マラーナーのジャムルー神と交流があることです。ラーホール~マラーナー~キナウルとつながるヒマーチャル基層文化を探る上でも重要な場所なのですが、どんどん話が長くなるので、今回はこれで終わり。

小出し劇場なのに、また長くなってるな・・・。

2014年6月10日火曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(13) マナスル登山関連TV番組一覧-その3

1970年5月の日本隊エヴェレスト初登頂を受けて、再びヒマラヤ登山に注目が集まった。日本隊もマナスルに再挑戦。

すばらしい世界旅行 マナスル8156メートルを征服す ネパール  
1971夏(30分) 日本テレビ
1971年春、ネパール・マナスル山群のマナスル(8156m)へ登山隊が2隊同時期に入山。西壁からの登頂をめざす日本マナスル西壁登山隊(隊長:高橋照)と北東稜からの韓国隊。日本隊は5月17日登頂に成功(小原和晴、田中基喜)、1956年の日本隊による初登頂以来15年ぶりの史上第2登であった。番組はこの登攀記録。なお、韓国隊は隊員の遭難死により敗退。
参考:
・毎日新聞
・高橋照 (1976) 『マナスル西壁 鉄の時代のヒマラヤ』. 文藝春秋.
・小原和晴+高橋善数・編 (1976) 『マナスル西壁 登攀報告書』.山と渓谷社.

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1960年代、日本女性もヒマラヤ登山に進出するようになり、1970年代には8000m級に挑戦するまでに成長した。その入口として選ばれたのはやはりマナスル。

【 1974日本女性マナスル登山隊関連 】

1974年春、同人ユングフラウによる日本女性隊(総指揮:佐藤京子、隊長:黒石恒)がネパール・マナスル山群マナスル(8156m)に挑戦。未踏の東稜からの登頂をめざすも断念し、通常の北東稜ルートに変更。5月4日、中世古直子(登攀隊長)、内田昌子、森美枝子がシェルパのジャンブーと共に登頂に成功。女性の8000m級峰制覇世界初という快挙をなしとげた。第2次アタックは鈴木貞子隊員が遭難死し中止。
参考:
・朝日新聞社企画部・編 (1974) 『日本女性マナスル登頂 栄光と涙の記録 世界初の8,156メートル』. 朝日新聞社.
・日本女性マナスル登山隊・編 (1974) 『日本女性マナスル登山隊報告書 1974』. 茗溪堂.

テレビ・ルポルタージュ マナスルに挑む女たち  
1974春(30分) TBSテレビ
10年前からマナスル挑戦を計画してきた佐藤京子(36歳)とその仲間たちの、登山隊派遣に至るまでの苦労を描く。放送当日はまだ登頂成功のニュースは日本に届いていなかった。
参考:
・毎日新聞

マナスルの白い影 女性登山隊の記録  
1974末(60分) TBSテレビ
語り:中世古直子・隊員。
カトマンドゥ出発から登頂成功に至るまでの行動を、関田美智子・隊員が撮影した8ミリフィルム映像で追っていく(放送局取材班は同行していない)。鈴木隊員遭難前後の様子も報告。
参考:
・毎日新聞

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1980年代になると、ヒマラヤ登山は珍しいものではなくなり、TV番組として見る機会もだいぶ減る。マナスルにも多くの登山隊が登頂しており、大きく取り上げられることもなくなった。

そのマナスルがまたもや注目を浴びたのは、1981年のイエティ同人隊が映像に収めたヒマラヤ越えのツルの映像。ツルのヒマラヤ越え関連番組は他にもあるので、こちらもいずれまとめてみましょう。

ニュース・ウィークリー マナスルのつる ほか
1981秋(5分程度か?) NHK総合
1981年秋、イエティ同人隊(隊長:加藤保男)がネパール・マナスル(8156m)に挑戦。10月12・14日に計3名が登頂に成功。加藤保男は3度目の8000m級峰制覇という偉業を成し遂げた。この登攀では、ヒマラヤを越えるアネハヅルの姿をモンスーン明けの指標としていたが、その美しい姿をフィルムに収めることにも見事に成功した。おそらくその映像が放映されたと思われる。
参考:
・朝日新聞

科学ドキュメント ヒマラヤを越えるツル マナスル登山隊の記録
1982初(30分) NHK総合
1981年秋、イエティ同人隊(隊長:加藤保男)のネパール・マナスル(8156m)登攀の際に撮影されたヒマラヤを越えるツルの群れ。このツルが絶滅寸前のソデグロヅルではないかと話題になった。ヒマラヤを越えるツルはオグロヅル、アネハヅル、ソデグロヅルなど数種類いるらしく、飛ぶ姿・模様はどれもよく似ているが、後にこれはアネハヅルと判断された。マナスル登山の映像と共にツルの正体やその生態について推理する。
参考:
・朝日新聞

アネハヅル謎のヒマラヤ越え 飛行ルート5000キロを追う
1996初(90分) NHK総合 
ヒマラヤ高峰のさらに上を越えて飛ぶアネハヅルの群れの映像は、この世で最も美しい絵のひとつだろう。調査地はロシア・ダウルスキー自然保護区(バイカル湖南東、モンゴルとの国境近く)、モンゴル最西端、カリガンダキ(マルファ付近、メインのロケ地)、マナスルBC、インド・ラジャスタン。(注)
参考:
・日本野鳥の会+読売新聞社事業開発部・編 (1997) 『翔る ツルの渡り追跡調査写真集』. 読売新聞社.

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(注)

これも、他サイトに同一の文章がありました。明示は一切ありませんでしたが、私が提供した文章そのままですから、ここでもそのまま掲載します。

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(追記)@2014/06/10

最近の番組は調べていないのでわかりません。聞くところによると、イモトさんというタレントの方がマナスル登頂に成功したことが話題になっているとか。

と言われても、私はテレビを持っていないのでほとんど知りません。そのイモトさんも動いている姿を見たことがない。まあTVを見なくても死ぬことはありませんから平気。

2014年6月6日金曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(12) マナスル登山関連TV番組一覧-その2

マナスル登頂の余韻は翌年以降も覚めやらず、数々の回顧番組が作られます。昭和史・戦後史回顧番組でも必ず取り上げられるアイテムとなり、マナスル登頂は今や「歴史」になった、と言えるでしょう。

一方登山家たちは、次の目標として同じマナスル山群のヒマルチュリやピーク29、ジュガール・ヒマール山群を目指し、これらの軌跡も記録映像としてたくさん残っています(今回は省略)。

そして続く目標として、いよいよエヴェレスト(サガルマータ/チョモランマ)が視界に入ってくるのですが、1965~69年のネパール・ヒマラヤ登山全面禁止を受けてその試みは頓挫。日本隊によるエヴェレスト初登頂は1970年まで待たなくてはなりませんでした。

エヴェレスト登山関連番組もいずれまとめてみましょうかね。

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【ラジオ】 マナスル登頂一周年記念随想特集(全6回)  
1957春(20分?×6) ニッポン放送
(1)松方三郎(日本山岳会会長)/マナスルまで
(2)竹節作太(毎日新聞運動部長)/ヒマラヤの風物詩
(3)三田幸夫(第一次マナスル登山隊隊長)/ヒマラヤの山々
(4)加藤喜一郎(マナスル登頂隊員)/マナスルという山
(5)木原均(京都大学理学部教授)/科学的の成果
(6)槇有恒(第三次マナスル登山隊隊長)/マナスル登頂の意義
参考:
・毎日新聞

ヒマラヤのお話  
1958夏 KRテレビ
出演:依田孝喜(毎日新聞社写真部、3本のマナスル登山記録映画のカメラマン)、加藤喜一郎(マナスル登頂者の一人)。
参考:
・毎日新聞

ヒマラヤ物語  
1960初(45分) 日本テレビ
出演:槇有恒(第三次マナスル登山隊長)、三田幸夫(第一次マナスル登山隊長)。
フィルムと座談でマナスルを中心にヒマラヤ登山を語り合う。
参考:
・読売新聞
・毎日新聞
・岩下莞爾 (1989) 『テレビがチョモランマに登った』. 日本テレビ.

びっくりスコープ 世界の屋根ヒマラヤ  
1960夏(25分) NHK総合
出演:槇有恒(第三次マナスル登山隊長)、林寿郎(雪男学術探検隊)、高島春雄、中沢公正。
参考:
・毎日新聞

映画 マナスルに立つ  
1961初(90分) NETテレビ
1956年公開の第三次マナスル登山隊の初登頂記録映画を初テレビ放映。
参考:
・毎日新聞

特別番組 ガルツェンをしのんで  
1961秋(30分) NETテレビ/毎日放送テレビ
出演:槇有恒(第三次マナスル登山隊長)、松田雄一(マナスル/ヒマルチュリ登山隊員)、杉浦耀子(デオ・ティバ婦人登山隊員)、広谷光一郎(ランタン・リルン登山隊員)。
ギャルツェン・ノルブ(རྒྱལ་མཚན་ནོར་བུ་ rgyal mtshan nor bu)は、日本人ヒマラヤ登山隊で常に活躍してきたシェルパ・サーダー。1956年のマナスル初登頂者の一人でもある。1961年春のランタン・リルン登山隊(大阪市立大)において、5600mのC3地点で雪崩に遭い日本人隊員2名と共に死亡。
彼の妻と四人の遺児の経済的困窮を救おう、とガルツェン遺児援助資金募集委員会(委員長:槇有恒)が設立され、テレビ局の賛同を得て追悼番組が放映された。CM収益と出演料は寄付され、一般募金の呼びかけも行ったようだ。
参考:
・毎日新聞
・大阪市立大学ヒマラヤ遠征委員会 (1962) 『雪線別冊 大阪市立大学ランタンリルン遠征報告書 1961 Premonsoon』. 大阪市立大学ヒマラヤ遠征委員会.

婦人ニュース 父ガルツェンをしのぶ  
1964夏(15分) TBSテレビ
出演:ニマ・ノルブ。
日本のヒマラヤ登山隊で活躍し1961年に遭難死したシェルパ・サーダーのギャルツェン・ノルブの娘さんが来日し、父の想い出を語る。
参考:
・毎日新聞
・大阪市立大学ヒマラヤ遠征委員会 (1962) 『雪線別冊 大阪市立大学ランタンリルン遠征報告書 1961 Premonsoon』. 大阪市立大学ヒマラヤ遠征委員会.

教養特集 日本回顧録 アイガーからマナスルまで  
1963夏(60分) NHK教育
出演:槇有恒(第三次マナスル登山隊隊長、1894~1989)、聞き手:串田孫一(東京外語大学教授)、ゲスト:三田幸夫(日本山岳会副会長)、今西寿雄(第三次マナスル登山隊員)、藤山愛一郎。
日本登山界の進歩と共に歩んできた槇氏の輝かしい半生をたどる。槇氏は1921(大正10)年にアルプス最難関コースといわれていたアイガー東山稜登攀に成功し一躍世界の登山界に名を知られるようになる。その後1925(大正14)年、日本初の大規模海外遠征となったカナディアン・ロッキーのアルバータ峰(3619m)初登頂にも成功。そして1956(昭和31)年には第三次マナスル登山隊長として、見事日本人初の8000m級高峰登頂へと導いた。
参考:
・毎日新聞
・槇有恒 (1968) 『わたしの山旅』. 岩波新書.

教養セミナー 証言・現代史 西堀栄三郎 "探検精神半世紀"(全2回)
1984春(45分×2) NHK教育
第1回南極観測越冬隊長を務め、マナスル登山隊派遣にも尽力した探検家・西堀栄三郎(当時81歳、1903~1989)の足跡を本人の証言とともに振り返る企画。
(1)マナスルから南極へ
最終的に日本山岳会が主催したマナスル登山隊だが、その発端を作り、実現へ向けて尽力したのは京都大学山岳部OBの西堀と今西錦二であった。
(2)品質管理から原子力へ
こちらは本業である技術研究者としての足跡を追ったもの。
参考:
・朝日新聞
・西堀栄三郎・著、唐津一ほか・編 (1991) 『西堀栄三郎選集 人生は探検なり 西堀榮三郎自伝』. 悠々社.

2014年6月1日日曜日

ツェリン・シャーキャ先生の名前

例によって追記を書いているうちに長くなったので、独立させました。

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前回のエントリーで「シャキャ(シャーキャと伸ばした方がよい) ཤཱཀྱ shAkya」の表記にひっかかった方もいるのではないでしょうか?

これはインド語なので、ちょっと変わった綴りになっているわけです。shAとkyaの間に「་ (ཚེག tsheg ツェグ)」がないのもそういうこと。ツェグが入ることもありますが、それはやっぱり「チベット語化している」とみなした場合の表記。どちらでもOK。

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kyaの後にツェグをつけるかつけないかは難しいところ。

文章になっている場合、文末の基字が

(1)ཀ ka、ག ga、ཤ shaのときは、ツェグも「། (ཤད་ shad シェー)」もくっつかない。
(2)ང ngaのときはツェグとシェーの両方つける。
(3)その他のときはシェーだけつける。

というのがチベット文の決まりです(注1)。

これが、文章ではなく、単語だけを取り上げた場合の表記はどういう決まりになっているのか知りません。

単語だけを取り出した場合でも、文章と同じ扱いでシェーをつける人もいます。あるいはツェグで済ます人もいます。これは文章の一部を抜き出した、という解釈でしょう。

私は後者ですが、語末基字がka、ga、shaのときは、先ほどの(1)に倣ってツェグもつけないようにしています。つける人もいます。

この辺はよくわからないところなので、もし「はっきりとした決まりがあるのに馬鹿だなー」ということでしたら教えてください。

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なお、Tise+Tibetan Machine Uniでのキーストロークは「shAkya」あるいは「shaakya」。どちらでも同じ表記が出てきます。よくできていますね。

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さて、そのshAkyaの意味ですが、これはもちろん「釈迦」のこと。釈尊の出身氏族名です。

あれ?ということは、もしかするとツェリン・シャーキャさんは苗字がシャーキャ?

そう言われてみると、チベット人の名前は通常苗字はなく、2つの単語がくっついてできているはずです。たとえば

bstan 'dzin bkra shis
rin chen sgrol ma

など。

ところがtshe ring dbang 'dus shAkyaという名前は単語が3つ。shAkyaが氏族名である可能性は高いでしょう。調べてみると、shAkya tshe ring dbang 'dusと、shAkyaが先頭に来る表記もみかけます。

氏族名をつけるのは貴族などの名家出身者が多い。現代でも氏族名を名乗っている人もいますが、なんといっても吐蕃時代の個人名によく出てきます。

mgar stong rtsan yul zung(ガル(氏の)・トンツェン・ユルスン)
dba's stag sgra khong lod(バー/ウェー(氏の)・タクラ・コンルー)

など。ご覧のように氏族名が先頭に来ます。

shAkyaが氏族名だとすると、ツェリン・シャーキャという具合に氏族名が最後に来るのはどうしてでしょうか。これは、ツェリン・シャーキャさんが長く欧米で暮らしているから、とみられます。つまり、欧米風に苗字を最後に持っていった、ということ。

チベット人としての名前は「シャーキャ(氏の)・ツェリン・ワンドゥー」、UK/カナダ住民としての名前は「Tsering W. Shakya」ということなのでしょう(注2)。

なお、ツェリン・シャーキャさんが、UKあるいはカナダ国籍を取得しているかどうかは知りません。

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シャーキャという氏族名、どうもチベット起源ではなさそうです。

この氏族名は現在でもネパールに残っています。カトマンドゥ盆地の原住民族ネワール人(नेवार)の氏族名です。

本当かどうかはわかりませんが、シャーキャ氏族(शाक्य)は、カピラヴァストゥからカトマンドゥ盆地に移住した釈迦族の子孫と称しています。現在は、仏師を生業とする仏教徒高位カーストの氏族名でありカースト名です(注3)。

吐蕃時代の昔から近年に至るまで、ネパールからチベットへは多くの仏師が招かれています。そしてそのままチベットに定住した者も多い、といいます。ツェリン・シャーキャさんの先祖は、そういったネワール仏教の仏師だったのかもしれません。

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ツェリン・シャーキャさんの家系については、本やネットで調べても出てこないので、ほとんど私の推察ばかりなのですが、おそらくそれほど的外れではないでしょう。

もしかすると、先日ツェリン・シャーキャ先生に直接お会いした方の中に、このあたりの事情をすでに聞いている方がいらっしゃるかもしれません。それで、もし今回の内容に誤りがあれば、早いうちに訂正しておきたいところです。

というわけで、早くどこかにこの辺のお話が出ないものでしょうか、と楽しみにして今回は終わり。

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(注1)

これも何故にそういう決まりになっているのか知らない。『性入法』あたりに説明があるのでしょうか?

(注2)

同様なケースは、以前紹介したSamten Gyaltsen Karmay先生。Karmayが氏族名/苗字です。チベット語では、このKarmayが先頭に来ます。

なお、以前Karmayのチベット文字表記をmkhar smadとしました(ネット上で拾ったもの)が、どうもmkhar rme'uが正しい模様(こちらもネット上で拾ったものですが)。

とすると、これはまた面白い話になるのですが、長くなるので別稿で。あっちのほうも追記を入れておきましょう。

その前に、マナスルTVを片付けてしまいましょうかね。

(注3)

本来カーストを否定するところから始まった仏教ですが、ネパールではヒンドゥ教のカースト制度に組み入れられてしまい、仏教徒の中にもカーストができてしまいました。

密教僧カースト(Vajracarya/Gubhaju)、仏師カースト(Shakya/Bare)が仏教徒高位カーストになります。

ネワール仏教やシャーキャ氏族について詳しくは、

・立川武蔵・編 (1991) 『講座 仏教の受容と変容 3 チベット・ネパール編』. pp.324. 佼成出版社, 東京.
・David N. Gellner (1993) MONK, HOUSEHOLDER, AND TANTRIC PRIEST ; NEWAR BUDDHISM AND ITS HIERARCHY OF RITUAL. pp.xxiii+428. Foundation Books, New Delhi.
← Original : (1992) Cambridge University Press, Cambridge(UK).
・田中公明+吉崎一美 (1998) 『ネパール仏教』. pp.vii+264+14. 春秋社, 東京.
・アジャヤ・クラーンティ・シャーキャ・著、井沢元彦・監修、堤理華・訳 (2009) 『シャカ族 仏陀を輩出した一族に今なお伝わる仏教の原点』. pp.389. 徳間書店, 東京.
← 英語原版 : Ajaya Kranti Shakya (2006) THE ŚĀKYAS. pp.272+pls. Nepal Buddhist Development & Research Centre, Kathmandu.

あたりをご覧ください。

2014年5月31日土曜日

ツェリン・シャキャ先生来日してたのか・・・


石濱先生のblogで知りました。

・石濱裕美子/白雪姫と七人の小坊主達 なまあたたかいフリチベ日記 > 2014/05/25(日) 国際チベット学会会長が来日
http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-713.html

ツェリン・ワンドゥー・シャキャ ཚེ་རིང་དབང་འདུས་ཤཱཀྱ tshe ring dbang 'dus shAkya(1959-)先生、といっても邦訳書はひとつもないので知っている人は少ないと思いますが。

でも、チベット現代史を詳細に語り論じた大著

・Tsering Shakya (1999) THE DRAGON IN THE LAND OF SNOWS ; A HISTORY OF MODERN TIBET SINCE 1947. pp.xxix+574+pls. Pimlico, London.
















だけで、充分歴史に名を残す存在です。

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これはダラムシャーラーで買ったんだったかなあ、シムラーだったかなあ。帰国後読み始めたんですが、当時通勤時間が往復4時間もあったので、じっくり読むことができました。1ヵ月くらいかかりましたが。

ドラゴンとは中国のことです。つまりチベット現代史を中国との関係で切って論じた歴史研究書。もっとも、中国との関係抜きでチベット現代史を語ることは不可能ですが。

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この本ではじめて知った事実がたくさんあり、大変勉強になりました。

激動の1950年代は当然詳述されていますが、この本では、これまで情報があまり出てこなかった1960年代以降の中国支配下チベットに詳しいのが特徴です(注1)。

文化大革命時代にチベットで何が起きていたのか、この本ではじめて知った事実が多い。文革後期のニェモ事件などは全く知らなかったので、驚くことばかりでした(注2)。

ムスタンのカムパ・ゲリラとUSAの関係についても、薄ぼんやりだった理解がより鮮明になりました。

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あと、自分の中ではどう位置づけていいのかよくわからなかったプンツォク・ワンギャルも、この本を読んでようやく(自分の中での)置き場所が定まった感があります(注3)。

とりわけ印象深かったのは、ンガプー・ンガワン・ジグメー ང་ཕོད་ངག་དབང་འཇིགས་མེད་ nga phod ngag dbang 'jigs med (1910-2009)の若き日々。

ンガプーといえば、映画『Seven Years in Tibet』をはじめ、チベット現代史では問答無用の悪役として扱われていますが、はじめから親中勢力だったわけではありません。

1940年代には、チベット政府内部で改革を訴え続けましたが全く無視されました。こうして当時のチベット政府に失望していったわけです。チャムド知事として対中国の最前線にあった際は、政府中枢から飛んでくる命令は現実的でない強硬策一辺倒ばかり。それで行き場をなくして親中の立場に追いやられた、という印象です。

ンガプーの評伝なども読んでみたい。中国産では自伝・評伝ともすでにあると思いますが、毎度おなじみのアレになっているのでしょうから、なかなか興味がわかない。中国外での研究として出てほしい。

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『DRAGON・・・』の少し前に出た本ですが、同時期に買ったのが、

・Warren W. Smith Jr. (1996) TIBETAN NATION ; A HISTORY OF TIBETAN NATIONALISM AND SINO-TIBETAN RELATIONS. pp.xxxi+732. Harper Collins Publishers India, New Delhi.
← Original : (1996) Westview Press, Boulder(Colorado).
















これもすばらしい。守備範囲は『DRAGON・・・』よりもやや広く、チベット史全般を扱った本ですが、中心はやはり現代史です。

さすがに一部しか読んでいません。4時間通勤の仕事が終わって読む時間が取れなくなったせいもありますが、そもそも私の興味の中心は現代史・現代政治ではないのが大きいのでしょう。『DRAGON・・・』で、ちょっとお腹いっぱいになった感はあります(注4)。

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このblogでは基本ナマモノを扱わないのですが、たまにはいいでしょう。これで「『DRAGON・・・』を読んでみるか」という人が日本で2~3人出るなら大成功。

もっと言えば、邦訳書が出るならサイコーですが、期待はしていません。

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(注1)

文革時代のチベットに関しては、今でこそ

・ツェリン・オーセル・著、ツェリン・ドルジェ・写真、藤野彰+劉燕子・訳 (2009) 『殺劫(シャーチエ) チベットの文化大革命』. pp.412. 集広舎, 福岡.

などが出て広く知られるようになりましたが、1990年代頃までは亡命チベット人などから断片的に情報が伝わる程度で、チベット現代史本でも記述は非常に少なかった。

(注2)

このニェモ事件については、

・M.C.ゴールドスタイン+ベン・ジャオ+タンゼン・ルンドゥプ・著、楊海英・監訳、山口周子・訳 (2012) 『チベットの文化大革命 神懸かり尼僧の「造反有利」』. pp.382. 風響社, 東京.

という本が出ましたが、まだ読んでいません。

もうね、最近はこういう高い本(¥3000)は買えないのですよ。近所の図書館にもないし。

その書評は阿部治平先生がやってます。

・リベラル21 > 阿部治平/八ヶ岳山麓から > (75) 2013.07.22 チベット人の文化大革命 二冊の本から
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-2442.html

ニェモ事件の概要を知るにもいい記事。

(注3)

プンツォク・ワンギャルについては、その後に出た

・阿部治平 (2006) 『もうひとつのチベット現代史 プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯』. pp.536. 明石書店, 東京.

でさらに理解が深まったのは言うまでもありません。

(注4)

私の中ではときどき文革ブームが来て、集中的に文革本を読む時期があります。まあ読むたびに胸糞悪くなるのですが。

最近では、文革時代の南モンゴルを詳述した

・楊海英 (2009) 『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録(上)』. pp.27+276. 岩波書店, 東京.
・楊海英 (2009) 『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録(下)』. pp.7+261+28. 岩波書店, 東京.
・楊海英 (2011) 『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録(続)』. pp.14+323+12. 岩波書店, 東京.

がヒット作。この本では、ウランフに対する認識ががらりと変わりました。

2014年5月26日月曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(11) マナスル登山関連番組一覧-その1

マナスル(मनास्लु Manāslu)という山は、日本人にとって特別な山です。

第二次世界大戦後まもなくの苦しい時代、復興の象徴として再開された海外登山。その第一目標が、日本人初のヒマラヤ8000m級高峰、すなわちマナスルへの登山でした。

マナスルの世界初登頂という快挙が、プロレスの力道山、水泳の古畑広之進らの活躍と共に、日本人が世界へ向けての自信を取り戻す力になったのは間違いありません。

日本人が初めてチベット文化圏の映像に触れたのも、このマナスル登山隊が残した記録映像だったと思われます。

その後、1955年からの一連のカラコルム/ヒンドゥクシュ探検隊、1958年のドルポ探検隊と続き、彼らが残した文献・映像は、後にチベット・ヒマラヤ研究者・愛好家を生み出す原動力となっています。私もその末裔の一人といえるでしょう。

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日本のチベット・ヒマラヤ記録映像の原点といえるマナスル登山関係番組をまとめてみます。

全般的な参考:
・深田久弥ほか (1983) 『ヒマラヤの高峰2』. 白水社.
・薬師義美+雁部貞夫・編&藤田弘基・写真 (1996) 『ヒマラヤ名峰事典』. 平凡社.
・公益社団法人 日本山岳会 > 資料室 > 遠征記録 > マナスル Manasuruの歴史1950-1996
http://www.jac.or.jp/info/kiroku/1996/manasr-page.htm












マナスルの位置  (c) Google Map

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【 1953日本山岳会第一次マナスル登山隊関連 】

日本でTV放映が開始されたのは1953年(NHKが2月、日本テレビが8月)。放送時間も短く、コンテンツも少ない時代。マナスル登山映像もまとまった形ではまだTVには乗らず、劇場用映画として公開されたのみ(ニュースでは取り上げられたであろうが、その状況は把握できない)。

【映画】 『マナスル』 
1953秋公開 毎日新聞社
構成:木下正美、撮影:依田孝喜。
ネパール・マナスル山群の未踏峰マナスル(8156m)世界初登頂へ向けた1953年3~6月の日本山岳会第一次マナスル登山隊(隊長:三田幸夫)の記録映画。7750mまで到達したが登頂失敗。麓のチベット人集落サマ(Samagaon)の様子、チベット仏教なども紹介。チベット文化圏の映像が日本に紹介されたのは、これがはじめてと思われる。
参考:
・毎日新聞
・日本山岳会 (1954) 『マナスル 1952-3』. 毎日新聞社.

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【 1954日本山岳会第二次マナスル登山隊関連 】

1953年の第一次隊に続き、1954年3~6月第二次マナスル登山隊が派遣されたが、地元サマ住民の反対に遭いマナスル登山は断念。ガネッシュ・ヒマール(7406m)登山(登路不良により登攀断念)、ヒマルチュリ(7893m)登路偵察に切り替えた。
隊長:堀田弥一、隊員:竹節作太(報道斑、毎日新聞運動部長)、依田孝喜(報道斑、同写真部員)ほか。
三次にわたるマナスル登山隊では一貫して毎日新聞社が後援していたため、マナスル報道は毎日新聞系列の独壇場。しかし当時まだ毎日系列テレビ局はなく、テレビ報道は主に日本テレビが担当。
参考:
・日本山岳会 (1958) 『マナスル 1954-6』. 毎日新聞社.
・竹節作太 (1955) 『ヒマラヤの山と人』. 朋文堂.

世界めぐり マナスル  
1954初(15分) 日本テレビ
出演:竹節作太、依田孝喜。
出発前の抱負を語る番組と思われる。
参考:
・毎日新聞

登山マナスル  
1954春(15分) 日本テレビ
出演:三田幸夫(1953年の第一次マナスル登山隊長)。
第二次隊出発当日の壮行番組のようだ。
参考:
・毎日新聞

ヒマラヤ報告  
1954夏(30分?) 日本テレビ
出演:堀田弥一、竹節作太、依田孝喜。
第二次マナスル登山隊の報告。
参考:
・毎日新聞

マナスル登山隊  
1954夏(20分) NHKテレビ
出演:竹節作太。
同じく第二次マナスル登山隊の報告。
参考:
・毎日新聞

【映画】 『白き神々の座』  
1954秋公開 毎日新聞社
演出:高木俊朗、撮影:依田孝喜、語り:宇野重吉。
第二次マナスル登山隊の記録映画。
参考:
・毎日新聞
・日本映画データベース  http://www.jmdb.ne.jp/
・Gogh's Bar : MOUNTAIN MOVIE MANIA
http://www2u.biglobe.ne.jp/~gogh0808/MotMovieList.htm

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【 1956日本山岳会第三次マナスル登山隊関連 】

1956年3~5月に派遣された第三次マナスル登山隊が、5月9日、11日の両日ついにマナスル(8125m)の世界初登頂に成功。日本人初の8000m級高峰制覇でもあった。
隊長:槇有恒、隊員:今西寿雄、加藤喜一郎、大塚博美、依田孝喜(報道班)ほか。
参考:
・槇有恒 (1956) 『マナスル登頂記』. 毎日新聞社.
・依田孝喜 (1956) 『マナスル写真集』. 毎日新聞社.
・槇有恒 (1957) 『マナスル』. 毎日新聞社.
・竹節作太 (1957) 『ヒマラヤの旅』. ベースボールマガジン社.
・日本山岳会 (1958) 『マナスル 1954-6』. 毎日新聞社.

【ラジオ】 週末クラブ 座談 マナスル登頂に成功して  
1956夏(30分) ラジオ東京
出演:槇有恒、今西孝夫。
マナスル登山隊員12名による座談会。ネパールで収録。
参考:
・毎日新聞

座談 マナスルの頂上に立ちて  
1956夏(45分?) KRテレビ
出演:槇有恒、今西寿雄、加藤喜一郎。
帰国した登山隊員が苦労話、エピソードを語り合う。出演者たちは、同日引き続きラジオ東京の座談会にも出演。
参考:
・毎日新聞

【ラジオ】 特別座談会 マナスルから帰りて  
1956夏(30分) ラジオ東京
出演:槇有恒、今西寿雄、加藤喜一郎、大塚博美、依田孝喜。
帰国したマナスル登山隊員たちが語り合う座談会。テレビに引き続き出演。
参考:
・毎日新聞

【ラジオ】 劇 マナスルの凱歌(全2回) 
1956夏(30分×2) ラジオ東京
作:並河亮、演出:和田清、語り:高島陽、詩の朗読:高橋和枝、出演:石黒達也、勝田久、久米明ほか。
マナスル登山隊の苦闘を描くドキュメンタリードラマ。現地で録音された雪崩の音、夜鳥の声、シェルパの歌なども効果音として使われている。
参考:
・毎日新聞

マナスル登山隊  
1956秋 KRテレビ
おそらく映画『標高8125米 マナスルに立つ』公開に合わせた宣伝番組。
参考:
・毎日新聞

【映画】 『標高8125米 マナスルに立つ』  
1956秋公開 毎日映画社
演出:山本嘉次郎、撮影:依田孝喜、語り:森繁久弥。
第三次マナスル登山隊の登頂記録映画。ビデオ化されている。この映画は大ヒットし、その後の登山隊・探検隊はこぞって記録映画を残した。
参考:
・毎日新聞
・日本映画データベース
http://www.jmdb.ne.jp/
・Gogh's Bar : MOUNTAIN MOVIE MANIA
http://www2u.biglobe.ne.jp/~gogh0808/MotMovieList.htm

2014年5月22日木曜日

ヒマーチャル小出し劇場(13) ヒマーチャルのバス旅

HP州の旅はバスが中心となります。

Kalka-ShimlaやJogindernagar-PathankotのToy Trainなど、鉄道も興味深いのですが、HP州奥地への旅となると、交通手段はバスしかありません(注)。

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このバス旅がなかなかつらい。直線距離はたいしたことなくとも、道路がウネウネ曲がりくねっている上に高度差もあるので、やたらと時間がかかります。

おまけに便数が少ないので、ほとんどのバスはギューギュー詰め。半日立ちっぱなしもざら。その満員の中に羊を持ち込む客までいて、わけがわかりません。羊はおもらしするし。

いっそ屋根に乗る方が気持ちいいのですが、本来これは違法なので、車掌に降ろされることもしばしば。まあ、実際車内に入りようがない時は仕方ないので黙認されていますが。

屋根に乗っている時は、落ちないよう居眠り厳禁。とにかく揺れますから。あと、木の枝が顔面を直撃するので注意。


楽隊もバスで移動

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道路状況も悪い上に運転も荒っぽい。谷底へのバス転落事故のニュースも年に数回聞きます。

そんな状況ですから、旅行者はもとより地元の人々もバスに酔います。吐瀉物は窓から撒き散らし放題。だからバス後部の席では、窓を開っぱなしにしない方が吉。

バスから降りた直後は「あー、もう乗りたくない」とは思うものの、やっぱりやめられないのがヒマーチャル旅の魔力です。


ゲロでコーティングされたステキな車体

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(注)

車のチャーターなどは貧乏人には夢のまた夢、私にとってはチョイスの俎上にすら上がりません。調べる気もないので、金額とかは何も知らない。いつも、埃だらけの私の横を疾走して行くのを指くわえて眺めるだけ。

2014年5月18日日曜日

「パドマ/ペマ」「オムマニペメフーム」のチベット文字表記

前回の追記として書いたものですが、長くなったので独立させました。それに、ちゃんとタイトルつけた方が、検索でひっかかりやすいし。

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(追記)@2014/05/17

པདྨ་ padma(蓮)の綴りは、見慣れないと「何これ?」と思うかもしれません。

これはインド語のチベット文字転写なので、チベット語では見かけない縦積み(重層字 མཐུག་པོ་ mthug po/築字 བརྩེགས་ brtsegs と言います)が出てくるわけです。

以前ご紹介したགནྡྷོ་ལ་ gandho laはもっとすごいですが(笑)。これもインド語です。

padmaはインド語では「パドマ」と発音されますが、すっかりチベット語として馴染んでいて、チベット語では「ペマ」と発音されています。その流れでཔད་མ་ pad maと綴られることもあります。どちらかが誤り、ということはありません。

「パドマ/ペマ」はもともとチベット語だ、と思っていた方も多いかもしれませんね。

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チベット語を覚えて最初に書いてみたくなるのが、観世音菩薩の六字真言「オムマニペメフーム」でしょう。ところが、これがものすごく難しい。入門時に習うチベット文字にはない特殊記号、逆字、重層字だらけなのですから。

それもそのはずで、実は意外なことに「オムマニペメフーム」にはチベット起源の単語はひとつも含まれていません。全部インド語です。チベット文字での表記は、インド語の音を苦労して忠実に転写したものです。インド語転写用の文字、特殊記号を駆使しないと書けないのです。

手書きならば見よう見まねでなんとかなりますが、コンピュータでのチベット文字入力となると、初心者はお手上げです。

以前使っていたフォントu-chanでは、「オムマニペメフーム」は打てませんでした。現在使っているフォントTibetan Machine UniはTiseという入力ソフトを使って打つのですが、これなら対応しています。

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「パドマ/ペマ」と「オムマニペメフーム」のTiseでのキーストロークを記しておきましょう。

པདྨ་ pad+ma

ཨོཾམཎིཔདྨེཧཱུྃ oMmaNipad+me↵hUq
(↵はEnterキー。一旦ここで切らないと、文字がダブってしまいますから注意。)

なお、「オムマニペメフーム」はインド語ですから、終わるまで「་ (ཚེག tsheg)」は入りません(チベット語化している、ととらえれば、ツェグを入れても間違いではない)。


Rewalsarのマニ石

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(追記)@2014/05/18

上のマニ石では、「オム」が「ཨཱོཾ(オーム)」になっています。どちらでもよいのです。この場合は「o」を大文字「O」にして下さい。

ཨཱོཾམཎིཔདྨེཧཱུྃ OMmaNipad+me↵hUq

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(追記)@2014/05/20

「オムマニペメフーム」のことばかり考えていたせいで、「オムニバス」という文字を見ると、うっかり「おっ!」と思ってしまう日々。

他にも、「インドアテニス」の看板で「インド!」と思ったり、「ノートパソコン」が「蒙古パソコン」に聞こえたりと、病人状態の時がままあります。

2014年5月15日木曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(10) 1960年代、日本へのチベット人留学生

前回、在スイス・チベット人の番組を紹介しましたが、今度は日本です。

日本が受け入れているチベット人は約60人(2003年時点)とえらく少ないのは、前回も書いたとおり。今はもう少し増えて・・・いないだろうか。

日本が初めてチベット難民を受け入れたのは、1965年のことでした。国の方針ではなく、民間による受け入れです。人数はわずか5人。それも少年を留学させるという形でした。民間での取り組みですから、システム的にも人数的にもこれが精一杯だったのだと思います。

その5人の少年たちを取り上げた番組がこれです。

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あすは君たちのもの チベットから来た少年  
1966秋(30分) NHK総合
ゲスト:茅誠司ほか。
十代の活躍を紹介する少年少女向けシリーズの一編。
木村肥佐生・亜細亜大学教授(第二次世界大戦中にチベットに滞在していた)の発案で、丸木清美・埼玉医科大学長の資金援助を得て、インドのチベット難民少年を日本に留学させるプロジェクトが発足。
1965年12月に5人が来日、1966年4月埼玉県毛呂山町立毛呂山中学に入学した。5人の中でも特にダムデン君に焦点を合わせ、級友たちとの友情や町民たちとの心温まる交流を紹介する。またスタジオにチベット人少年5人を招き、励ましの言葉が贈られた。
なおこのダムデン君は、日本に帰化し「西大寺ダムデン」の名で現在埼玉県内で医師として活躍中。もうひとり「西蔵ツ(ェ)ワン」さんも埼玉県内で医師。そして5人の中で最大の有名人がペマ・ギャルポさん。
参考:
・毎日新聞
・ペマ・ギャルポ・談、相馬勝・聞き手 (2007) モンゴルの大地を駆ける(1)~(5). 産経新聞2007-05-06~11.

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来日して半年余りですからまだ言葉も不自由な頃だろうに、その上TVの取材ですから、少年たちはかなり戸惑っただろうと思います。

しかし、その体験は充分刺激的だったことでしょう。これによって、少年たちの日本に対する認識は深まったに違いありません。いろんな意味で。

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ペマ・ギャルポさん(注1)はよくマスメディアに登場されていますから、改めて動向を紹介するまでもないでしょう。ペマさんが所長を務める

・チベット文化研究会
http://www16.ocn.ne.jp/~tcc/

を紹介するだけにしておきます。

西大寺ダムデンさん(注2)は医師の傍ら、参議院議員選挙(比例代表)に出馬したこともあります。

西蔵ツワンさん(注3)も医師の傍ら、最近は自分の体験を発表される機会が増えています。

・iza イザ! > ニュース > ボイス > 専門家・記者ブログ > 古森義久/ステージ風発 > 旧ブログ > 「私は10歳でチベットを脱出し、35歳で日本人になった」――ある医師が語るチベット民族の悲劇 (2008/05/16)
http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/575936/
・西蔵ツワン (2008) 私は見た 中国の「洗脳・密告・公開処刑」--チベット亡命医師の手記. 文藝春秋, vol.86, no.7(2008/07), pp.164-173.
・フリー・チベット・ムービー『風の馬』公式サイト > コラム > 西蔵ツワン (2009/02)
http://www.uplink.co.jp/windhorse/column_01.php

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これは在日チベット人の会です。政治活動も含め様々な活動を行っています。

・在日チベット人コミュニティー(TCJ)
http://www.tibetancommunity.jp/

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(注1)
པདྨ་རྒྱལ་པོ་ padma rgyal po。

(注2)
おそらくདམ་ལྡན་ dam ldan。

(注3)
おそらくཚེ་དབང་ tshe dbang。

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(追記)@2014/05/17 + (追記)@2014/05/18 は独立させて、

2014年5月18日日曜日
「パドマ/ペマ」「オムマニペメフーム」のチベット文字表記

としました。

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(追記)@2017/01/07

西蔵ツワンさんの記事がありました。

・ニューズウィーク日本版 > 最新記事 > ワールド > 高口康太/埼玉の小さな町にダライ・ラマがやってきた理由(2016年12月28日(水)11時24分)

http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/12/post-6636.php

2014年5月12日月曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(9) スイスのチベット人

在外チベット人といえば、ダラムシャーラーや南インド、ネパールあたりの居留地が有名ですが、チベット難民は世界各国で受け入れられています。

中でも受入数が多いのはスイス。2002年現在3000人。インド(10万人)、ネパール(2万人)、USA(5500人)に次ぐ数です(同じく2002年現在)。ちなみに日本には60人。少なすぎですよね。

参考:
・ダライ・ラマ法王日本代表事務所(チベットハウス・ジャパン) > チベットについて > 亡命チベット人について(as of 2014/03/21)
http://www.tibethouse.jp/exile/

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スイスでは1960年代前半と、早くからチベット難民の受け入れが始まっています。現在は、上記人数からさらに増え4000人を超えているようです。

参考:
・Wikipedia (English) > Tibetan Swiss (as of 1 January 2014)
http://en.wikipedia.org/wiki/Tibetan_Swiss

その受け入れの、初期の様子を伝える番組がありました。

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NHK特派員だより スイスのチベット避難民
1966初(20分) NHK総合
あまり知られていないが、スイスはチベット難民受入数ではインド、ネパール、北米に次ぐ(現在約3000人)。番組ではスイスのチベット難民の暮らしを紹介したものと思われる。
参考:
・毎日新聞

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情報が少なく、内容についてはタイトルから推察するしかありません。しかし、同時期の新聞記事で、これを補足できるようなものがあります。

・Tibet Sun > News > ST Gallen/Tibetans in Switzerland (before 2014/03/21)
http://www.tibetsun.com/news/1964/06/27/tibetans-in-switzerland
← 初出 : (1964) The Observer, 27 June 1964.

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この記事によると、ある居留地では大きな小屋(スイスで言うところのシャレー)に40人の老若男女が共同生活を送り、男は大工や工夫などで働きます。その収入を皆で分配して生活しているのですが、中国共産党から逃げて来て、そこで真の共産主義が成立しているのは皮肉な話です。

共同生活の中で、チベット式の衣類やチャンまで自作していたようですからたいしたものです。生活の中では、言葉の障害が最大の問題だったことは云うまでもありません。

スイスのチベット難民受け入れの特徴は、孤児を養子として迎えたケースが多いことでしょう。彼らは他の難民に比べてかなり恵まれた暮らしができたでしょうが、他のチベット人との接触も少なく、チベット人としてのアイデンティティもどんどん失っていったでしょうから、どっちが幸せなのか、一概には判断できませんね。

おそらくNHKの番組でも、このような話題が取り上げられたことでしょう。

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私が初めてチベットへ行ったのは、カトマンドゥから空路でした。そのとき隣りに座っていたのが、在スイス・チベット人。カトマンドゥでチベット人はよく見かけましたから、チベット人であることはすぐわかりました。「ああ、仕事かなんかでカトマンドゥに行って、チベットに戻る人なんだな」と思っていたわけです。

彼は私に「入国カードを書いてくれ」と言うのですよ。「中国籍チベット人なら中国語くらい書けるんじゃないの?」と思いましたが、渡されたパスポートはスイスのもの(今思えば、在スイス難民用パスポートだったよう)。当時は、スイスにチベット人がいることなど知りませんから、驚いてしまいました。

きっと里帰りだったのでしょう。アルファベットも漢字も書けないのですから、十分な教育を受けた方ではなかったと思います。それでもチベットへ里帰りできるだけの金が貯まったわけですから、スイスでのチベット人の生活はかなり恵まれている、と言えるでしょう。

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スイスのチベット人コミュニティについては、

・Tibetan Community in Switzerland & Liechtenstein
http://www.tibetswiss.ch/home.html

あたりをご覧下さい。

また、スイスにはチベット仏教僧院もできています。1985年にヨーロッパで初めてカーラチャクラ大灌頂が行われたTibet Institute Rikon(རི་ཀོན་ཆོས་འཁོར་དགོན་ ri kon chos 'khor dgon)、レマン湖畔のRabten Choeling Monastery(རབ་བརྟན་ཆོས་གླིང་དགོན་པ་ rab brtan chos gling dgon pa)。スイスに旅行される方は、行き先にこちらも含めてみてはいかがですか。

・Tibet Institute Rikon
http://www.tibet-institut.ch/index.html
・Rabten Buddhist Monasteries
http://www.rabten.eu/index_en.htm

2014年5月8日木曜日

ヒマーチャル小出し劇場(12) シムラーに住みたい

インドに数年住むなら、是非シムラー(Shimla शिमला)に住んでみたい。

シムラーはHP州都であり、キナウル~スピティやラーホール~ラダックへの入口ともなる町です。それでいてインドらしさも充分あると私は思うし、イギリスらしさもあります。シムラーは英領インド時代の夏都でした(冬都はカルカッタ)。

インド入国後まっすぐシムラーに来て、「ここはインドらしさに欠ける」とガッカリする人が多いようですが、来てすぐだとそうなるでしょう。でも、長くインドを旅していると、インドらしさはそろそろお腹いっぱいになってきます。毎日インドなんですから(あたりまえか)。このインドらしくないところが、逆にシムラーの魅力なのです。インド長期旅行のリフレッシュにはちょうどいい場所でしょう。

また、インド・ヒマラヤで長く粗食に耐えた人にとっては、シムラーに出た時の食の充実ぶりは本当にありがたい。

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ちょっとパチモン臭いけど、中華料理屋まであります。インドの少数民族Ethnic Chinese(華僑)の経営です。彼らは、共産中国成立以前に移住した中国人の子孫(注)。顔はもろ中国人なのに、家族内の会話はヒンディ語だし、女性はパンジャービー・ドレスを着ているし、違和感にめまいがしてきます。

亡命チベット人も多い。近郊にはニンマパのゴンパ、チョナンパのゴンパもあります。

それになんと言っても、本屋がたくさんあるのがよい。シムラーに来た時は、本を買いまくっては夜中まで読んで→梱包→SAL便で送るの繰り返し。

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上の写真は、尾根の上The Ridge。

日曜なので市民・観光客でいっぱい。新婚旅行のカップルが多いですね。その中にチベット仏教の行者が混じっていたりするのも、シムラーのおもしろいところです。

あっと、シムラーではサルに注意。ホテルでは、部屋の窓を開けっぱなしにしていると、すぐにサルに何かを持っていかれますから。

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(おまけ)

シムラー中心部の地図(雑にキャプチャー版)。ガイドブック用にこういうのを何十と作りましたが、全部無駄になっているわけです。











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(注)

華僑は中華料理店経営、というのは世界中同じですが、シムラーでは靴屋を営む人も多い。皮革産業は被差別カーストの職業とされているので、そのすきまに非ヒンドゥ教徒の華僑がすっぽりはまったわけです。

少数民族としてのEthnic Chineseは、チベット系のギャカル・カムパと似たようなポジションにあり、民族学の研究対象としてもなかなかおもしろそう。

2014年5月4日日曜日

ブロク・スカット('brog skad)の会話例

せっかくブロクパ(འབྲོག་པ་ 'brog pa)の話題になったので、ブロクパの言葉ブロク・スカット(འབྲོག་སྐད་ 'brog skad)について、少し触れてみましょう。

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ごちゃごちゃ前置きはやめて、まず会話例を見てもらいましょうか。

(T)-旅行者
(B)-ブロクパ

で示します。

(T)こんにちは。
Jule.
(B)こんにちは。
Jule.
(T)ここがダー村ですか?
Ane dah la ?
(B)はい、そうです。
Ya.
(T)ここには宿はありますか?
Aner hotel hang-a ?
(B)はい、2・3軒ありますよ。
Ya, du-tra hoteli hang.
私があなたをホテルへ案内してあげましょう。
Mai ti-ra hotel-di pun-pushyungs.
私と一緒にこっちへ来てください。
Mo-cisum perer ye.
(T)ありがとう。
Jule.
(B)これがホテルです。いい宿ですよ、安いし。
Homo hotel la. Noro unga sasta la.
(T)あなたはこれについてよく知っていますね。
Ti homo phyaci bede jitiyale.
(B)ホテルの主人は私の友だちなのです。
Hotel-u sadir myo yato hang.

その後、宿でご飯を食べたり、村人と話をしたり、ゴンパを参拝したりと続くのですが、今回はこれまで。

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単語はさておき、全体の雰囲気はチベット語よりもヒンディ語の方に近いですね。それも当然です。'brog skadはインド・ヨーロッパ語族ダルド語群シナー語の方言なのですから。ヒンディ語とはやや遠い親戚に当たります。

「私の」が「myo」だったりして、英語の「my」と似ています。印欧語族であることがしっかり実感できます。

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ここで、「'brog skad」の日本語訳がまだないので決めておきましょう。

「ブロク語」にします。

「ブロクパ語」でもいいんですが、「'brog pa'i skad」ではなく「'brog skad」であることを尊重して、「ブロク語」とします。

できれば彼らの自称を使いたいところですが、彼らの自称は「Sh(r)in」なので、これを利用すると「シナー語」になってしまい、ギルギットの「シナー語」と区別がつかなくなってしまいます。

「'brog skad」はシナー語の方言ですから、「シナー語ブロク方言」と言い換えることも可能です。しかし、「'brog skad」を単独で扱う場合が多いでしょうし、またギルギットのシナー語とはかなり差異が生じていることも考慮すると、「ブロク語」という独自の名称を与える意味合いは十分あるはずです。

なおこれは、「ブロク語」が言語学的に「シナー語」とは別言語として扱われるべき、と主張するものではありません。「ブロクパの言葉」程度の意味と受け取ってください。「チベット語」と「ラダック語」の関係と同じ扱いです。

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ブロク語勉強の元ネタは、お馴染みの

・Devidatta Sharma (1998) TRIBAL LANGUAGES OF LADAKH (PART 1). pp.xv+184. Mittal Publications, New Delhi.

Part 2のラダック語同様、なかなか難儀な本なのですが、ブロク語の文法書というのは世界中でこれしかないので仕方ありません。

ある程度、Sharmaの本の癖をつかんでしまえば使いではかなりあります。これで勉強して、現地で確認・補足すれば、ブロク語は一通り使えるようにはなろうか、という充実の内容ですよ。買って損はない本です。

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上に挙げた会話例だけではなく、一般に使えるような会話帳も完成しているのですが、実際に使えるかどうか、発音は正しいのか、など現地で確認する必要があります。

しかし、例によって行く機会も金もないので、発表できるのはいつになるかわかりません。まあ、需要があるわけないですし、「ないと困る」という人も誰もいないでしょうから、気長に。

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(追記)@2014/05/04

上の会話例は、Sharma(1998)で勉強した結果をもとに、私が創作したもの。そのまま転載したものではありません。

Sharma(1998)には、ブロク語の例文が多数掲載されているのは当然ですが、いずれも文法を説明するためのものでほとんどが短文です。ですから、その本をちょっと読んだくらいでは、すぐにブロク語が使えるようになるわけではありません。ある程度気合入れて、読んだり勉強したりしてください。

2014年4月29日火曜日

「ブロクパ」とはどういう意味か?(5)

さて、その「'brog」の意味ですが、ここでもやはり「辺境/僻地」という意味が当てはまるでしょう。では、それは誰がどこから見ての「辺境/僻地」なのでしょうか?

「'brog」はチベット語ですから、当然視点の主体はチベット人になります。中央チベットにいるペルコルツェン王が「'brog」と呼んでいるのですから、中央チベットから見ての「辺境・僻地」となります。

吐蕃時代の7~9世紀にかけて、チベット人は徐々に西方に進出して行きました。そして言語・文化的に土着の人々をチベット化。10世紀初当時、西方のチベット化がどこまで進行していたか定かではありませんが、かつての吐蕃領であり、現在チベット語圏となっているバルティスタン(古代の大勃律)までは「辺境・僻地」ではなく、「こちら側」とみなされていた雰囲気が濃厚です。

ボロル(ブルシャ)は、吐蕃時代には占領地となりチベットの影響が及んでいましたが、吐蕃帝国崩壊後はチベット圏から脱し、言語・文化がチベット化することもありませんでした。

そのさらに外側にいたダルド系民族(シン人)は、吐蕃時代にチベット勢力とまとまった形で接触した形跡はありません。10世紀当時は、チベット側にとってあまり馴染みのない集団だったと思われます。

というわけで、「チベット圏の外側、すなわち辺境/僻地に住む異民族」としてシン人を「'brog mi」と呼んだ、と推察します(注)。

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そしてようやくブロク・ユルのブロクパに戻りますが、ギルギットからラダックに移住してきたシン人の一派は、その故地にいたころの他称を引き継いで、チベット系民族(ラダッキ/プリクパ/バルティ)から「'brog pa」と呼ばれたとみていいでしょう。

「'brog mi」と「'brog pa」はどう違うのでしょうか?

これはなかなか難しい問題ですが、「~mi」の方は、対象は概念的、集合名詞的な用法で、話者にとってあまり身近ではない集団に対して使われることが多いような気はします。

<例>
དམག་མི་ dmag mi (兵士)
རྒྱ་མི་ rgya mi (中国人)

一方、「~pa」の方は、対象は具体的、単複どちらにも使われ、話者がじかに接する者に対して使われることが多いような気はします。

ギルギットという遠方にいて、チベット系民族にとってあまり身近ではない頃には「'brog mi」と呼ばれ、ラダック移住後はじかに接するようになり「'brog pa」と若干呼び名が変更されたのではないか、と推測します。

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話が長くなっているのでまとめておくと、ラダックの「'brog pa」は、ラダックにやって来てからはじめて「'brog pa」と呼ばれるようになったのではなく、故地ギルギットにいる時から「'brog mi」と呼ばれ、移住後もその呼び名を引き継いでいる、という仮説を提唱しているわけです。

しかし今のところ、ギルギットのシン人に対して「'brog mi」という他称が用いられている例を、私は上述の『ニャンレル仏教史』しか知りません。上記仮説を堅固なものにするためには、もう少し実例を集める必要があります。

吐蕃時代にはシン人はまだボロル(ブルシャ)には進出していない様子で、『敦煌文献』にはその名は見当たりません。

ポスト吐蕃時代となると、中央チベットと西方の非チベット系諸国との交流は激減し、情報量もぐっと減ってきます。西部チベットの史書である『ンガリー王統記mnga' ris rgyal rabs/』や『ラダック王統記la dwags rgyal rabs/』には西方諸国との接触は多数現われますが、この「'brog mi」という単語は見つかりませんでした。

バルティスタン関係史料を綿密に当たれば、「'brog mi」についてもう少しわかりそうな気もするので、探索継続。

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『ニャンレル仏教史』での、もう一箇所の登場例も見ておきましょう。

┌┌┌┌┌ 以下、Vitali(1996)より ┐┐┐┐┐

彼(ララマ・イェシェ・ウー)の帰依所であるセルポ(チェン)(སེར་པོ་(ཅན་) ser po (can))とサガンのドクミ(ས་སྒང་གི་འབྲོག་མི་ sa sgang gi 'brog mi)が諍いを起こし、彼らによってセルポチェンが殺害された際、ララマが「私の帰依所を殺害したのであるから賠償せよ」とおっしゃったのに対し、「鞍覆ほどもある金塊を献じられるであろう」と夢に見たとおり、ドンツェワン(དོང་རྩེ་ཝང་ dong rtse wang)金鉱(གསེར་ས་ gser sa)という土地が献じられ、それぞれの坑道から金が十荷も取れた。

└└└└└ 以上、Vitali(1996)より ┘┘┘┘┘

残念ながら、ドンツェワン金鉱の位置は不明です。バルティスタンのハプルー(ཁ་པ་ལུ་ kha pa lu)の北、フーシェ谷(Hushe Valley)にあるセルポ・ゴ(གསེར་པོ་མགོ gser po mgo)という地名は、その候補の一つではありますが、どちらもまだ情報不足。

また、セルポ(チェン)という人物についても、これ以上は情報を持っていません。ドクミの住む場所については、結局ここでは手がかりはありません。

しかし、ダルド民族と金鉱の関係は、古くからギリシア/ローマ系史料による報告が多数あり、ドクミ=ダルド民族(シン人)という比定には有利な内容ではあります。

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余談ですが、「'brog mi」でピンときて、気になっていた方も多いのではないでしょうか。

འབྲོག་མི་ལོ་ཙཱ་བ་དཔལ་གྱི་ཡེ་ཤེས་ 'brog mi lo tsA ba dpal gyi ye shes (ドクミ・ロツァワ・ペルギ・イェシェ) [992-1072]

のことです。

サキャパ祖師の一人で、サキャパ開祖コン・コンチョク・ギャルポ(འཁོན་དཀོན་མཆོག་རྒྱལ་པོ་ 'khon dkon mchog rgyal po [1034-1102])の師。訳経師としても名高い。

この「'brog mi」は氏族名。ヤムドクガン(ཡར་འབྲོག་སྒང་ yar 'brog sgang)という場所(おそらくヤムドク・ユムツォ周辺)の氏族です。

ドクミ氏が、古代にギルギット方面から移住してきたという情報は確認できなかったので、おそらくギルギットとは無関係でしょう。yar 'brogという地名が先にあり、それにちなんだ氏族名と思われます。

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(注)

「'brog mi」と似た言葉に「མཐའ་མི་ mtha' mi」という言葉もあります。これは「(国)境の人」という意味ですが、「'brog mi」よりもやや具体的に対象が見えている印象があります。

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(追記)

すでに結論めいたことを言っているわけですが、その他にもう一つの可能性もあります。

それはブロク・ユルのブロクパが「ギルギットのBagrotから来た」と云われていることです。この「Bagrot」が訛って、チベット語の「'brog」に転じた可能性はないでしょうか?

そもそもBagrotという地名がいつから現れるのか?あたりからして、わからないことだらけなのですが、もう少し調べてみたいテーマではあります。

2014年4月26日土曜日

「ブロクパ」とはどういう意味か?(4)

以前、ヌプチェン・サンギェ・イェシェ(གནུབས་ཆེན་སངས་རྒྱས་ཡེ་ཤེས་ gnubs chen sangs rgyas ye shes)の年代を推測するのに使った史料で、

・ཉང་རལ་ཉི་མ་འོད་ཟེར་ nyang ral nyi ma 'od zer (12C後半?) 『ཆོས་འབྱུང་མེ་ཏོག་སྙིང་པོ་སྦྲང་རྩིའི་བཅུད། chos 'byung me tog snying po sbrang rtsi'i bcud/ (花蘂の蜜汁なる仏教史)』
→ 通称 : 『ཉང་རལ་ཆོས་འབྱུང་། nyang ral chos 'byung/ (ニャンレル仏教史)』

という文献があります。

現物は所有していないので、その内容は部分的に毎度おなじみの

・Vitali (1996) 前掲.

から孫引きしています。

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そこに、ས་སྒང་འབྲོག་མི་ sa sgang 'brog miという集団が現れます。

一箇所はンガリー・コルスム諸王朝の祖キデ・ニマゴン(སྐྱིདལྡེ་ཉི་མ་མགོན་ skyid lde nyi ma mgon)が西遷しようとするときに、その父ペルコルツェン(དཔལ་འཁོར་བཙན་ dpal 'khor btsan)王がアドヴァイスをするという場面です(注1)。時代は10世紀初。

┌┌┌┌┌ 以下、Vitali(1996)より ┐┐┐┐┐

ティ・キデ・ニマゴンが御馬の口を上手へ向け、上手領土(མངའ་རིས་སྟོད་ mnga' ris stod)へとお移りになる際に、御父上の御口から発せられた「谷が開けたところに住んでいるような者たちであるロ・モン(ལྷོ་མོན་ lho mon)、ブルシャ(བྲུ་ཤ་ bru sha)、バルティ(སྦལ་ཏི་ sbal ti)、サガンのドクミ(ས་སྒང་གི་འབྲོག་མི་ sa sgang gi 'brog mi)など、人とも人にあらざる者ともつかぬ連中がおって危険が多いから、守護神(ཡི་དམ་ yi dam)・護法神(སྲུང་མ་ srung ma)への顕密の儀式の数々を怠ることのなきように」という戒めを堅守しておられるので、ンガリー王(བཙད་པོ་ btsad po)方々の存在そのものが社稷・領土繁栄を保つ大いなる源なのである。

└└└└└ 以上、Vitali(1996)より ┘┘┘┘┘

逐語訳に近い体裁をとっているので、日本語の文章としてはややギクシャク、ダラダラしていますが、チベット文語とはこういう文章なのです。

キデ・ニマゴンの行き先である西チベットのさらに先に住み、敵対する可能性のある集団として、ロ・モン、ブルシャ、バルティ、そしてサガンのドクミの名が挙げられています。

ロ・モンとは、「南のモン」すなわち「ヒマラヤ南縁の異民族」。モンはチベット側から見て、ヒマラヤとインド平原部の間に住む集団の多くに与えられる名称(注2)で、かなり漠然とした表現です。ここでは、西部ヒマラヤ南縁の、大勢力とまでは言えない集団やあまり接触がない集団を、十把一絡げにして挙げたものと考えてよいでしょう。

次のブルシャ、バルティはより具体的です。ブルシャは現在のギルギット~フンザの人々、バルティはいうまでもなくバルティスタンの人々を指します。

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そして問題のサガン・ドクミ。まず「サガン ས་སྒང་ sa sgang」とは何でしょうか?

Vitali(1996)では、一般名詞という解釈をとります。訳語は「雨の降る土地」となっていますが、その根拠はよくわかりません。一般名詞ならば「土盛り/小山」あたりがふさわしい気がします。

都市部から離れた山岳部という意味なのでしょうか?あるいは、土葬の風習(つまり土饅頭)を表したものかもしれません。

しかしこの文脈からすると、地名である可能性の方が高いと思われます。となると、その場所はブルシャ、バルティの近隣に違いありません。

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俄然注目されるのは、ギルギットの古名あるいは雅名とされる「Sargan/Sarjan/Sargin」です。「Sargin-Gilit」と併称されることが多いようです。「sa sgang」は、この名称のチベット語による音写ではないでしょうか。

この場合、ブルシャがすでに挙げられているのにもかかわらず、さらにギルギットが現れるのは違和感を覚えます。しかし、10世紀当時には国名・地域名としては「ボロル/ブルシャ」がまだ現役でした。ギルギットの方は地域名ではなく、まだ国内の都市名にすぎなかったことでしょう。

ギルギットは、一貫してボロル国(分裂後の小勃律)の都であったとみられています。古代にはヤスィン(Yasin)が中心地であった、という説もありますが、磨崖仏や経典が発見された仏塔群などがあるギルギット周辺の方がやはり都にふさわしい、と感じます。

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そして、「sa sgang」に続く「'brog mi」。これはブロク・ユルの「'brog pa」につながる名称でしょう。となれば、ダルド系民族(シン人)を指している可能性大です。

ボロル/ブルシャの原住民は、おそらくブルシャスキー語(もしくはその原語=仮称:ブルシャ語)話者であったろう、と私は推測しています。一方シナー語を話すシン人は、南方から徐々にボロルに進出して行き、上位階級を占めるようになったとみられています。

ブルシャとサガン・ドクミ(ギルギットのシン人)が別扱いされているのは、ボロル国主流(王家と原住民)をブルシャと呼び、新興勢力シン人を「サガンのドクミ」と呼び区別したのではないでしょうか。

ギルギットはボロル/ブルシャの王都ながら、10世紀には新興シン人が多数派を占める、という現在につながる状況ができつつあったのかもしれません。

以下、次回。

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(注1)

一般には、キデ・ニマゴンの西遷はペルコルツェン暗殺後のこととされています。ですから、上記エピソードが史実であるのかは、疑問の残るところです。しかし、西遷前からキデ・ニマゴンが西部チベット方面に興味を持っていたとすれば、実際にこのような会話が交わされた可能性はあるでしょう。

(注2)

「མོན་ mon モン」の語源は、中国語の「蛮(中古音:man)」と同一ではないか、という説があります。「蛮」の方も「南蛮」という具合に、南の異民族に与えられる名称であることが共通しています。

となると、「mon」は中国語からの借用語、と思い込みがちですが、「mon」も「蛮」も共にシナ・チベット語族の祖語(古代羌語はその候補の一つ)から分岐した、という可能性も考慮すべきでしょう。

参考:
・T.S. Murty (1969) A Re-appraisal of the Mon-Legend in Himalayan Tradition. Central Asiatic Journal, vol.13, no.2, pp.291-301.
・Françoise Pommaret (1999) The Mon-pa Revisited : In Search of Mon. IN : Toni Huber (ed.) (1999) SACRED SPACES AND POWERFUL PLACES IN TIBETAN CULTURE : A COLLECTION OF ESSAYS. pp.52-73. LTWA, Dharamsala.

シナ・チベット語族の祖語については、

・橋本萬太郎 (1981) シナ・チベット諸語. 北村甫・編 (1981) 『講座 言語 第6巻 世界の言語』所収. pp.149-170. 大修館書店, 東京.

あたりをまずご覧下さい。

2014年4月23日水曜日

「ブロクパ」とはどういう意味か?(3)

「ダー・ドク མདའ་འབྲོག mda' 'brog(注1)」とは、どういう意味なのでしょうか?

まず、その場所から。

ダー村(注2)の横っちょを流れているダー・ルンパ(མདའ་ལུང་པ་ mda' lung pa)を上流に遡ると、夏の放牧地があります。そこには夏の間は長期間暮らせるように小屋も建てられているようです。これがダー・ドクです。

伝説では、ギルギットから移住して来て最初に住んだ場所がここだったと云います。しかし、まもなく谷を下って村を作り、以来現在までダー村が居住の中心となっています。

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その'brogの意味ですが、これは「離れ/僻地」という意味です。つまりmda' 'brogは「ダー村の離れ」、そしてそれが転じて、実質的には「ダー村の夏の放牧地」を指す、と言えます。

これは、現在のダー村が先に存在しないと意味をなさない地名です。もともとダー・ドクのことをダーと呼び、現在のダー村が成立した後に、最初のダーをダー・ドクと言い換えたのかもしれませんが。

いずれにしても、「ダーより先にダー・ドクという地名があって、それがブロクパの語源」というのは成立しようがありません。

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ここでチベット語の「'brog」、「'brog pa」を見ておきましょう。

チベット語の'brog pa(ドクパ)に対する訳語としては、たいてい「遊牧民」が当てられます。しかし、実は「'brog」に「遊牧」という意味はありません。

遊牧民は、「'brog(僻地)」に住んでいるから「'brog pa(僻地(に住む)人)」なのです。

'brog paは、「རོང་པ་ rong pa(谷に住む人)」/「ཡུལ་པ་ yul pa(村に住む人)」、すなわち「農民」、の対義語として用いられます。農民と遊牧民を対比し、差別化しているわけです。農耕地帯=村落部を中心と位置づけ、そこに属さない辺境・荒野を'brogと、その辺境・荒野で遊牧を営む人々を'brog paと呼んだわけです。

もっと極端な場合、'brog paはབོད་པ་ bod pa (チベット人)と対比した使い方をされるときがあります。これは、'brog paをなかば異民族扱いしている、といえるでしょう。それだけ農民と遊牧民の文化には大きな違いがあるのです。

参考:
・山口瑞鳳 (1987) 『東洋叢書3 チベット 上』. pp.xix+337. 東京大学出版会, 東京.
・R.A.スタン, 山口瑞鳳+定方晟・訳 (1993) 『チベットの文化 決定版』. pp.xviii+389+53. 岩波書店, 東京.
← フランス語原版 : Rolf Alfred Stein (1987) LA CIVILISATION TIBÉTAINE : ÉDITION DÉFINITIVE. pp.ix+252+pls. l'Asiathèque, Paris.

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もうひとつ'brog paの用例を見ましょう。こんどはブータンの'brog paです。ラダック同様「ブロクパ」と呼ばれているようです(注3)。

これは、ブータン東部タシガン県(བཀྲ་ཤིས་སྒང་རྫོང་ཁག bkra shis sgang rdzong khag)の最東端(すなわちブータンの最東端)に住む少数民族です(注4)。

ヤク毛で作った黒いベレー帽ジャム(zhamu)、チベット・コンポのものと似た貫頭衣のユニークな姿を見たことがあるかもしれません。

さて、このブロクパはヤクを使った交易・牧畜を生業とする人々で、遊牧民とまではいかないようです。こちらも語源は「辺境・僻地に住む人々」の意味と思われます。

近隣に住む農民の方も、ブロクパと衣類などの習俗や言語はほぼ同じですが、名称が変わって「དྭགས་པ་ dwags pa(ダクパ)」となります。これは「開けた土地の人」の意味でしょうか?あるいは、中央チベット南東部の地名ダクポ(དྭགས་པོ་ dwags po)と関係あるのかもしれません(注5)。

このブロクパの「'brog」は、ブータン中央から見ての「辺境/僻地」ではなく、農民ダクパと対比しての「辺境/僻地」のような感じですね。

参考:
・野村亨 (2000) ブータン王国における言語状況 : その歴史と現状. ヒマラヤ学誌, no.7, pp.93-114.
・平山修一 (2005) 『現代ブータンを知るための60章』. pp.355. 明石書店, 東京.

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こうして見ると、ラダック・ブロクパの「'brog」も「辺境/僻地」の意味であると推測できるわけですが、では、それは誰がどこから見ての「辺境/僻地」で、それは具体的にどこに当たるのでしょうか?

という話は、次回に。

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(注1)

mda' 'brogは、'brog skadでは「nir dah(ダー宮/ダー城)」と呼ばれています。これはダー村のはずれにあるダー・カル(མདའ་མཁར་ mda' mkhar)とは別。

(注2)

デュロ、メロ、ガロ三兄弟がこの地にやって来て、畑を作ろうとしたが水がなかった。そこでガロが谷の対岸高台(Changlota)から矢(མདའ་ mda')を放つと、岩に刺さりそこから水が噴き出した。そして、そこから村まで水路が引かれた、というもの。ダーの名はこの伝説にちなむ、とされています。

また、その矢が刺さって水が噴き出した場所はダーファンサ(མདའ་འཕན་ས་ mda' 'phan sa = 矢が射られた場所)と呼ばれ、ダー村の聖地の一つになっています。

ダーファンサでは、確かに崖の穴から水が出ているように見えます。しかし、実はなんのことはない、水路が岩のトンネルを通過しているだけです。水路はダー・ルンパ上流から引かれて、この地点でなぜかトンネルになっているだけでした。ダーファンサの伝説も、どうも後づけの作り話としか思えません。

(注3)

ゾンカ語(རྫོང་ཁ་ rdzong kha)では、'brog pa→'byog pa→byogpと変化して「ビョプ」と発音されているそうです。

(注4)

ハイビジョンスペシャル 天空の民"ブロックパ" ブータン・秘境に生きる
2002年初 (120分) NHK-BS1

というTV番組がありましたが未見です。TVをつけた瞬間この番組を発見し、「あっ!」と声を上げたたものの、もうラストシーンでした。もちろん録画もしていません。返す返すも惜しいことをした。垂涎の番組のひとつ。

(注5)

ブロクパとダクパは、民族衣装がほぼ同じこともあり、ガイドブックや旅行記では、2集団を区別せずブロクパと呼んだり、ダクパと呼んだりしており、呼び名は混乱している。

2014年4月20日日曜日

「ブロクパ」とはどういう意味か?(2)

'brog paといえば、チベット語では一般に「遊牧民」という訳語が与えられています。

ブロク・ユルのブロクパも「遊牧を生業とすることから'brog paと呼ばれる」という説を見かけます。本当でしょうか?

ダー村(མདའ་ mda')に行ったことがある方ならばわかるでしょうが、彼らの生業は半農半牧といったところで、遊牧を行ってはいません。彼らは定住生活を送っていますし、牧畜にしたところで、せいぜい夏場に近隣山岳部の決まった場所へ移牧に行く程度で、冬場には村に下りてきます。

それに、この程度の移牧はラダッキ/プリクパ/バルティの間でもごく一般的です。それらと区別する理由は特に見当たりません。

ちなみに、ラダック東部で本格的に遊牧を行っている人々は、「བྱང་པ་ byang pa (チャンパ)=北の人/チャンタン高原の人」と呼ばれます。

「遊牧民だから'brog pa」という理由は根拠薄弱です。

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他にも「ブロク・ユルとラダックを結ぶ交易に従事しており、移動生活を送るから'brog paと呼ばれる」という説もあります。

しかしチベット語では、こういったいわゆる交易商人に対して'brog paという名称が与えられる例はありません。呼び名はཚོང་པ་ tshong paとなるはずです。これも根拠薄弱。

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また、「彼らはかつてダー村上手のダー・ドク(མདའ་འབྲོག mda' 'brog)に住んでいたため'brog paと呼ばれる」という説もありますが、これも仮に成立するとしても、ダー村民に対してだけでしょう(注1)。

'brog paという集団は、ダー村だけに住んでいるのではありません。ブロク・ユル全域、ドラス(Dras)、さらにはバルティスタン側にもおり、チベット語での他称はみなブロクパです。

これらのブロクパが、すべてダー・ドクから四方に広がった、というわけではありません。彼らは色々なルート、時期にギルギット方面からやって来たはずです(注2)。

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しかし、この「ダー・ドク」という地名、「'brog pa」の語源でこそありませんが、実は語源解明のいいヒントになるのです。

以下、次回。

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(注1)

お隣の村ハヌー(ཧ་ནུ་ ha nu)の人々も、ダー村と同じくデュロ、メロ、ガロの三兄弟を祖とする同族です。ハヌーに伝わる伝説では、この三兄弟の子孫が、ダー、ハヌー、ガノクス(ག་ནོག་ས་ ga nog sa)に分かれて住み始めた、とされています。ダー・ドクに相当する聖地(つまり最初に住み始めた場所)はハヌーにもあり、それはHanu Lungpaの上流ハンダンスミン(ཧན་དྲང་སྨིན་ han drang smin)にあたります。

なお、三カ所の村には、ハヌーではなくガルクン(གར་ཀུ་ནུ་ gar ku nu)が入る場合もあります。

(注2)

ラダック西部プリク(སྤུ་རིག spu rig)地方は18世紀にラダックに併合される前は、多くの小王国が分立する状態が続いていました。それらの王国はチベット系とダルド系に大別できます。

ダルド系王家の祖は、みなブルシャ/ギルギットから移住してきた、という伝説を持っています。その名は、チクタン(ཅིག་ཏན་ cig tan)ではツァンケン・マリク(ལྩང་མཁན་མ་ལིག ltsang mkhan ma lig)、ソッド(སོད་ sod)ではタタ・カーン(ཁྲ་ཁྲ་ཁཱན་ khra khra khAn)、シムシャ・カルブ(ཤིམ་ཤ་མཁར་བུ་ shim sha mkhar bu)ではシャシャ・ムン(སྲ་སྲ་མུན་ sra sra mun)と様々ですが、伝説の内容は似通っており同一人物かもしれません。

年代は不明ですが、10世紀以前のよう。ブロク・ユルのブロクパの移住譚と内容は一致しないので、同一民族ではあるが別勢力とみてよいでしょう。ダルド民族のラダック移住が、一本道ではないことがわかります。

これらのダルド民族は、現在ブロクパと呼ばれる集団を除き、外来のチベット系民族と同化してしまい(特に言語)、プリクパ(སྤུ་རིག་པ་ spu rig pa)という集団を形成しました。

また、ブロク・ユルでは、ブロクパが移住してくると、そこにはすでにミナロ(Minaro)という先住民がいました。これは、先住のダルド系民族であろう、と推測されています。ミナロはブロクパに吸収されたようです。

バルティスタン側に住むブロクパは、当然みなモスレム。移住のフェイズは10世紀頃と17世紀の2回あったようです。やはり他称はブロクパ。

このように、ラダック/バルティスタンの基層にあるダルド系民族の諸相には興味深いものがありますが、史料が少なくはっきりしない部分が多い。

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(追記)@2014/04/20

ブロクパには、他にもいろいろな他称があります。その一つがマクノパ(Machnopa)。

これはチベット語のམག་པ་ mag pa(婿)と関係ある言葉とみられます。「no」がよくわからないのですが、ནོ་ནོ་ no no(兄/有力者)かもしれません。

これは、もしかするとギルギットから移住して来たブロクパが、先住のミナロに婿入りすることで、そう呼ばれることになったのでは?などと想像しているのですが、資料が少なくてこれ以上はなんとも言えません。


2014年4月17日木曜日

「ブロクパ」とはどういう意味か?(1)

語源シリーズ第5弾。語源シリーズは、これでひとまず終わりです。

ブロクパとは何でしょうか?

འབྲོག་པ་ 'brog pa (ブロク・パ/ドロク・パ/ドク・パ)

とは、ラダック西部インダス河下流域に住む人々のことです。彼らの住む地域は「འབྲོག་ཡུལ་ 'brog yul (ブロク・ユル)」と呼ばれています。

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ブロク・ユルまで足を伸ばさなくとも、彼らの姿は目にすることができます。レーの道端で野菜や果物を売っている露天商の中に、頭上に花を飾ったひときわ目立つ女性たちにすぐに気づくでしょう。彼女らがブロクモ('brog mo='brog paの女性形)です。

ラダッキはモンゴロイドとコーカソイドの混血といった風貌をしていますが、ブロクパはほぼ完全なコーカソイドです。「コーカソイド=白人」という等式は彼らには当てはまりません。ラダッキと同じくらい日焼けして肌の色が濃くなっていますから。

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チベット系言語を話すラダッキ、プリクパ、バルティに囲まれながらも、彼らが話す言語はインド・ヨーロッパ語族ダルド語群に属する「འབྲོག་སྐད 'brog skad (ブロク・スカット)」です。これはギルギットの言葉シナー語(Shina)の一方言。

その言語が示すとおり、彼らは1000年ほど前にギルギット地方Bagrotあたりからやって来たと伝えられています。

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「アレクサンドロス大王軍兵士の末裔か?」などと云われることもありましたが、これは根も葉もない俗説。実際にそういった伝説を有するカラーシュやフンザ(注1)とは違い、ブロク・ユルにアレクサンドロスがらみの伝説は皆無です。

俗説のもとは、おそらく近年にラダックを訪れた欧米人旅行者あたりがたてた噂でしょう。欧米人はアレクサンドロス大王の東方遠征に過大な幻想を持っています。それで、パミール~カラコルム~ヒマラヤ西部で、周囲とは異質な文化を持つ人々を見つけると、特に根拠もなく「すわアレクサンドロス大王軍兵士の子孫か?」と言い始めるわけです(注2)。

ギルギットのシン人は、ブロクパとは親戚なのですが、彼らに対して「アレクサンドロス大王軍兵士の末裔か?」という噂が立つことはありません。どうやら、イスラム教徒になってしまうとその資格はなくなるようです(笑)。イスラム教の中でも異質なイスマイリ派のフンザはOKのようですが。

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さて、ブロクパ/ドロクパ/ドクパと呼ばれる(注3)彼らですが、これはチベット系民族からの他称です。これがチベット語であることでも、他称であるのは明らかですね。

自称は「Sh(r)in」。ギルギットのシン人(Shin)と全く同じです。

では、彼らはなぜ'brog paと呼ばれるのでしょうか?そして'brogって何?という問題に取り掛かりましょうか。

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本テーマにおける主要参考文献をまず挙げておきます。

・John Biddulph (1880) TRIBES OF THE HINDOO KOOSH. pp.vi+164+clxix. Calcutta. → Reprint : (2001) Bhavana Books & Prints, New Delhi.
・August Hermann Francke (1907) A HISTORY OF WESTERN TIBET. pp.191+pls. S.W.Partridge & Co., London. → Reprint : (1995) Asian Educational Services, New Delhi.
・August Hermann Francke (1926) ANTIQUITIES OF INDIAN TIBET : PART (VOLUME) II : THE CHRONICLES OF LADAKH AND MINOR CHRONICLES. pp.viii+310. Archaeological Survey of India, Calcutta. → Reprint : (1992) Asian Educational Services, New Delhi.
・Rohit Vohra (1983) History of the Dards and the Concept of Minaro Traditions among the Buddhist Dards in Ladakh. IN : D. Kantowsky+R. Sander(ed.)(1983) RECENT RESEARCH ON LADAKH. pp.51-80. Weltforum Verlag, Munchen.
・Rohit Vohra (1985) Ethno-Historicity of the Dards in Ladakh-Baltistan : Observations and Analysis. IN : H. Uebach+J. L. Panglung (ed.) (1985) TIBETAN STUDIES : PROC. OF 4TH SEMINAR OF IATS., MUNICH, 1985. pp.529-546. Munchen.
・Rohit Vohra (1989) THE RELIGION OF THE DARDS IN LADAKH. pp.ii+165. Skydie Brown International, Luxemburg..
・Ahmad Hassan Dani (1991) HISTORY OF NORTHERN AREAS OF PAKISTAN. pp.xvi+532. National Institute of Historical and Cultural Research, Islamabad.
・Abbas Kazmi (1993) The Ethnic Groups of Baltistan. IN : C. Ramble+M. Brauen(ed.) (1993) ANTHROPOLOGY OF TIBET AND THE HIMALAYA. pp.158-163. Ethnological Museum of Univ. of Zurich, Zurich.
・Roberto Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG. pp.xi+642. Dharamsala.
・日本放送協会 (1997) 「素晴らしき地球の旅 ヒマラヤ花と祈りの民」. NHK-BS2. [TV番組]
・Devidatta Sharma (1998) TRIBAL LANGUAGES OF LADAKH : PART ONE. pp.xv+184. Mittal Publications, New Delhi.
・Sonam Phuntsog (1999) Hanu Village : A Symbol of Resistance. IN : M. van Beek+K.B. Bertelsen+P. Pedersen(ed.) (1999) LADAKH : RECENT RESEARCH ON LADAKH 8. pp.379-382. Aarhus Univ. Press, Aarhus (Denmark).
・Stephan Kloos (2012) Legends from Dha-Hanu : Oral Histories of the Buddhist Dards in Ladakh. Ladakh Studies, no.28 [2012/06], pp.17-26.
http://www.stephankloos.org/wp-content/uploads/2012/01/Legends-from-Dha-Hanu-Stephan-Kloos-LS28.pdf

中でも、Rohit Vohraによる研究が群を抜いているのですが、どの文献も入手しにくいのが残念。

こういった参考文献の羅列は、うっとうしい、不要、と思うかもしれませんが、これは基本であり、先達への礼儀ですから省略できません。そうですね、育ててくれた親に感謝するのと同じ、と思ってください。

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以下、次回。

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(注1)

といっても、フンザ、カラーシュのアレクサンドロス伝説は20世紀になってからの報告しかありません。私はそれほど古い伝説ではない、と考えています。たとえ原話は古いにしても、西欧人による脚色・解釈がだいぶ入っているでしょう。第一、アレクサンドロス軍がそんな奥地まで進軍した、という記録はないのですから。インダス川流域は、もっと下手までしか来ていません。

アレクサンドロス伝説の本場は、やはり西トゥルキスタン~アフガニスタン北部。そちらはアレクサンドロス軍が確かに足を踏み入れています。カラコルム方面はそれらに隣接する地域ですから、そちらから伝わったものとみていいでしょう。

アレクサンドロス伝説がカラーシュやフンザにしかないと思っていると、本気にしてしまいそうですが、伝説の広がりやその想定伝播経路を把握しておけば、足をすくわれることはありません。

もっとも、「アレクサンドロス大王軍兵士の子孫」にしておいた方が旅行業界としては商売しやすいわけで、特に欧米人に対するアピール度は相当なものです。ですから、無理があるとわかっていても知らん振りして、俗説だけを垂れ流す人は後を絶たないでしょうね(すでにネタばれしているオカルトものを、いまだに「謎」として垂れ流すマスコミと同じ図式です)。

カラーシュあたりは、「ギリシア人の子孫」と言っていると、ギリシアはじめヨーロッパから人や援助がジャブジャブやって来るので、言っているうちに自分たちも本気になってしまっているようです。こういうのを「文化汚染」といいます。

私は、この伝説は、西からの「アレクサンドロス伝説」と東からのチベット系の伝説が混交したもの、と考えていますが、まだまとまった形にするほど探求が進んでいないので、いずれまた。

(注2)

ヒマーチャル・プラデシュ州クッルー県パールバティ溪谷のマラーナー(मलाना Malana)にも、「アレクサンドロス大王軍兵士の末裔か?」という噂がありますが、こちらは一層根拠皆無。

アレクサンドロスがらみの話など、かけらもありません。単に「周囲(ここではインド・アーリア系)とは異質な文化を持っている」というだけ。噂発生の時期もごくごく最近、20世紀末のことでしょう。

彼らの話す言語はカナシ語(Kanashi)といって、チベット・ビルマ語系ヒマラヤ語群に属します。近隣のキナウル語やラーホール諸語と同じグループの言語です。文化・宗教もよく似ており、両者とは宗教上での交流もあります。出自不明の謎の民族などではありません。

ただし今は、周囲をインド・アーリア系民族に囲まれてしまったので、一見孤立しているように見えるだけ。

マラーナーやカナシ語の話は、いずれ改めて。

(注3)

これらは、呼び手の言語によって'brog paの発音が変わっているわけです。

バルティ語/プリク語 → ブロクパ
ラダック語 → ドロクパ
チベット語 → ドクパ

おおむねこんな感じ。

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(追記)@2014/04/17

私の文献リストを見て、奇異に感じる人がいると思います。

それはリストの順番が、著者名の「あいうえお順」「ABC順」ではなく、年代順になっている場合が多い点。

その理由は、まず第一に、文献数が少ない場合、著者名順はほとんど威力を発揮しないからです。著者名順が威力を発揮するのは、文献数が数十のオーダーになったときでしょう。文献数が十や二十程度ならば、私は著者名順をとる必要はない、と思っています。

それに私は「著者名(年代)」で文献名を示すようにしています。年代順文献リスト上での場所は、年代で見つけることができますから、特に不便はないでしょう。

ではなぜ年代順に並べるのか、と言うと、これは私の好みなのですが、年代順に並べると研究史がある程度見えてくるのです。改まって研究史を書くのはなかなかおっくうですが、年代順文献リストを作る程度で研究史が把握できるのならば、それほど苦にはなりません。むしろ楽しいくらい。

何の調べ物でも一緒ですが、既存研究資料を集める際に、まずこのような年代順文献リストを少しずつ作っていくことをお勧めします。文献数が増えるに従って、徐々に研究史が見えてくるので、わくわくしますよ。まあ、私ごときがわざわざ言わなくとも、実行しておられる方は多いとは思いますが。

もちろん、正式な発表の際には、著者名順に直せばいいわけです。それはたいした手間ではありませんよね。私には、きちんとした形での発表の場はどこにもありませんから、ここでは自分好みの年代順文献リストで充分なわけです。

皆さん(て誰?)にも「文献リスト読み」の楽しさがわかってもらえたらうれしいのですが。

2014年4月14日月曜日

ヒマーチャル小出し劇場(11) 『シュナの旅』と似た風景 ラーホール

・宮崎駿 (1983) 『シュナの旅』. 徳間書店アニメージュ文庫, 東京.

という作品があります。元ネタはチベット民話「犬になった王子」(注)ですが、宮崎ファンタジーとして消化されており、チベット色はそれほど強くありません。














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そのp.4~5「旅立ち」の風景を見たとき、「あ、これラーホール(लाहौल Lāhaul/གར་ཞ་ gar zha)だ」と思ったものでした。よく似ているんですよ。














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残念ながら「ピッタリ!」という写真はないんですが、比較的いい線行ってるのはこれ。バーガー谷(भागा नाला Bhāgā Nālā)上流部の写真です。














『シュナの旅』の絵ほど極端に切り立ってはいませんが、現場では両岸壁の圧迫感は物凄く、ほんとあんな風に感じます。

ここよりも、下流部のほうが似ていますね。チャンドラー谷(चन्द्रा नाला Chandrā Nālā)、特にゴンドラー(गोंदला Gondlā/གནྡྷོ་ལ་ gandho la)あたりはもっと似ています。

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でも、宮崎氏が『シュナの旅』を描く際にラーホールをモデルにした、などと考えているわけではありません。偶然でしょう。

ただ、偶然にしてもずいぶんそっくりな風景だなあ、と思っただけ。たぶん今でも、宮崎氏はラーホールのことは知らないと思いますね。

実はシュナの住む谷は、「氷河がえぐった」という設定です。ラーホールの谷もかつては氷河で満たされ、氷河で侵食されたU字谷です。今は、そこからさらに侵食されて、川底付近はV字谷になっていますが。似ているのは当然なのですね。

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まるで隠れ里のような、このティノ(ཏི་ནོ་ ti no)あたりもなかなかいい感じです。

ジブリ・ファンなら好きな場所だと思います。ぜひ一度行ってみてください。

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(注)

その原作は、

・賈芝+孫剣冰・編、君島久子・訳、赤羽末吉・絵 (1964) 『白いりゅう黒いりゅう 中国のたのしいお話』. pp.156. 岩波書店, 東京. → 再発: (1993/2003) 岩波書店, 東京.
・君島久子・訳、後藤仁・絵 (2013) 『犬になった王子 チベットの民話』. pp.48. 岩波書店, 東京.

で触れてみてください。

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(追記)@2014/04/21

今思ったんだけど、『シュナの旅』は大判でも出した方がいいんではなかろうか。文庫サイズの絵ではもったいないよ。需要は十分あると思うけど。あと外国語版もあるといいのにね。

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(追記2)@2014/04/21

あと、これは予告みたいなものになるんですが、今、「犬になった王子」の分析、という作業をやっています。これは楽しい作業だなあ。遠からず出てきますよ。

2014年4月11日金曜日

「イエティ」のチベット語スペル(補足)

このテーマは、前に上げた2本で一応完結したのですが、気になる話が若干残っているので、補足しておきます。

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(1)Teh lma (ティルマ)

これはチベット語なのか確証がもてなかったので、前回分では入れませんでした。でも、アルファベットのスペルを発見し、これもチベット語だとわかったので解明してみます。

これは雪男の別称、特に「小型の雪男」として、ネット上でよく見かける名です。

参考:
・Unknown Explorers > Cryptozoology > Teh-lma (as of 2014/04/05)
http://www.unknownexplorers.com/tehlma.php
・Occultpedia : The Occult and Unexplained Encyclopedia > Browse A-Z > T > The-lma (as of 2014/04/05)
http://www.occultopedia.com/t/teh-lma.htm
・Tabitca/Cryptozoo-oscity > Wednesday, 27 January 2010 The mini -me of Yetis, the Teh-Ima.
http://cryptozoo-oscity.blogspot.jp/2010/01/mini-me-of-yetis-teh-ima.html

これらのサイトでは、例外なく「小型の雪男」として扱われています。つまり「チュティ(chung dred?)」と同義とみていいでしょう。

これは、

དྲེད་མ་ dred ma (テンマ) → ヒグマのメス

と推測されます。これもまたクマですね。

ヒグマのメスはオスよりも体が小さいので、chung dredとも呼ばれるのではないか、と考えます。あるいは子供のクマなのかもしれませんが、その辺は遠方からは見分けるのは難しいでしょう。

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(2)Abominable Snowman

これは、どういうチベット語/シェルパ語の訳語なのでしょうか。

根深(2012)には、イザード(1957)からの引用として、

┌┌┌┌┌ 以下、イザード(1957)→根深(2012)より ┐┐┐┐┐

H・W・ティルマンによると、このフレーズを創り出したのはダージリンのH・ニューマンであり、彼はチベット語「metch Kang-mi」――Kang-miは雪男、metchはfilthy<不潔な>またはdisgusting<むかむかするような>という意味――をabominable snowmanと訳したのだ。

└└└└└ 以上、イザード(1957)→根深(2012)より ┘┘┘┘┘

とあります。孫引きの孫引きもいいとこですが、まあご容赦ください。

根深(2012)では、チベット学者David Snellgroveの見解として、チベット語には「不潔な/むかむかするような」といった意味で「metch/metoh」といった発音の単語はない、と記されています。

私もその意見には賛成ですが、強いて言えば、

མི་སྡུག mi sdug (ミ・ドゥク) → 醜い/不快な

が、意味・発音とも近いかもしれません。

しかし、これは形容詞ですから、通常は「gangs mi」に後接するはずですがそうなってはいません。成語としてもあまりこなれていない感じです。

「metch/metoh」のチベット語スペルは、「mi sdug」ではなく、根深(2012)にもある通り、「mi dred(人の大きさのクマ)」ではないかと思います。

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dredという語幹は、「dred mo」という形で名詞「ヒグマ」を表しますが、「དྲེད་པོ་ dred po」という形で形容詞「荒々しい/野蛮な」にもなります。おそらくこちらが根源的で、その派生語としてヒグマに対して「dred mo(荒々しいもの)」という名称が与えられたのでしょう。

「mi dred(人の大きさのクマ)」は、「mdzo dred(ゾの大きさのクマ)」と対になって発生した言葉とみられます。ですが、「mi dred」単独で登場した場合、「dred」を形容詞ととらえ「荒々しい人/野蛮な人」という解釈も可能になります。

これは実に「mi rgod」と全く同じ意味です。この「rgod/dred (po)」が「abominable」という英訳となったのでしょう。

まとめておくと、

「mi dred → abominable man(誤訳)」 + 「gangs mi → snowman」 = abominable snowman

となったものと推測できます。

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これで雪男の名称とされるチベット語はすべて片付いた、と思っていますが、「他にもまだあるよー」ということでしたら、ぜひ教えてください。

2014年4月9日水曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(8) 雪男関連TV番組一覧-その3

1970年代になると、雪男探索自体には何の進展もないが、雪男はオカルトものの一環として息を吹き返す。この時代には、ヒマラヤのイエティよりも北米のサスカッチ/ビッグ・フットの人気が高かった。その理由は例の「パターソン・フィルム」にあるのだが、それも現在では捏造であることが明らかになっている。

すばらしい世界旅行 雪男探検隊 ヒマラヤ  
1971秋(30分) 日本テレビ
日本テレビ運動部ディレクター谷口正彦が、職を辞して5名からなる探検隊を率い、1971年1~6月ネパール・クーンブ山群、アンナプルナ山群で雪男探索を行った記録。ニワトリを囮に使った餌付け作戦、童謡のテープを流すおびき出し作戦など、テレビマンらしくユニークだが効果的とは思えないアイディア満載。例によってパンボチェ寺所蔵の雪男の頭皮?も登場。
参考:
・毎日新聞
・谷口正彦 (1971) 『雪男をさがす イエティを訪ねて』. 文藝春秋.→ 改題再発 : (1974) 『まぼろしの雪男』. 角川文庫.

火曜スペシャル 現代の謎 空飛ぶ円盤・雪男・ネス湖の怪獣  
1972夏(86分) 日本テレビ
3つのオカルト・トピックスを扱ったスペシャル番組(意外にも、最初から「木曜スペシャル」ではなかったのだなあ)。これがヒットし、オカルト特番は1970年代日本テレビのお家芸となる。雪男関連では、主に前年の谷口隊の映像(ネパール・クーンブ山群&アンナプルナ山群)を利用したものとみられる。
参考:
・毎日新聞
・谷口正彦 (1971) 『雪男をさがす イエティを訪ねて』. 文藝春秋.→ 改題再発 : (1974) 『まぼろしの雪男』. 角川文庫.

金曜スペシャル 三浦雄一郎 エベレスト氷河大滑降  
1975初(55分) 東京12チャンネル
三浦一家のスキー遠征に密着。氷河での滑降に加え、キャラバンの様子やお馴染みのパンボチェ寺の雪男頭皮なども紹介。
参考:
・毎日新聞
・読売新聞

ビックリッ子大集合! 怪奇ミイラ大特集  
1975秋(60分) 東京12チャンネル
河童のミイラ、鬼のミイラという胡散臭いものに混じって、お馴染みネパール・クーンブ山群パンボチェ寺の雪男頭皮(胡散臭さではこちらも負けていないが)が紹介されたようだ。
参考:
・毎日新聞

土曜スペシャル ミステリアス・モンスター!幻の猿人?ビッグフット徹底追跡
1980初(85分) 日本テレビ
世界各地で報告されている雪男を特集。特に北米のビッグフットに注目。ヒマラヤのイエティについても触れる。
参考:
・朝日新聞

ジュニア文化 ヒマラヤの雪男
1980夏(30分) NHK教育
出演:朝日稔(動物学者)ほか。
詳細不明。
参考:
・朝日新聞

ズームイン!!朝! ネパール・シリーズ(全20回) (18) ヒマラヤの雪男
1981初(10分程度か?) 日本テレビ
朝の情報番組の一コーナーとして4週にわたり放映された。カトマンドゥ盆地を中心にクーンブ山群へのトレッキングなども紹介している。そこで雪男について1回使っている。
参考:
・朝日新聞

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1980年代、雪男ブームはすっかり去っている。そんな中、フィリピン・ルバング島で小野田寛郎・元少尉を発見した鈴木紀夫は、地道にネパールで雪男探索を続けていた。しかし目立った成果はなく、TV番組が作られることもなかった。鈴木は1986年末、ダウラギリ山群コーナボン・コーラでの雪男探索中に、雪崩に巻き込まれて死去。

【 1988小野田寛郎の鈴木紀夫追悼ヒマラヤ登山関連 】

鈴木氏死去の報を受けた小野田氏(当時はブラジル在住)が、報道各社の協力を得て、1988年1月ダウラギリ山群コーナボン・コーラの事故現場までの追悼登山を行った。
参考:
・小野田寛郎 (1988) 『わが回想のルバング島 情報将校の遅すぎた帰還』. 朝日新聞社, 東京.
・越後屋浩二 (1992) 『冒険家の魂 小野田元少尉発見者鈴木紀夫の生涯』. 光風社出版.

ニュース・シャトル ヒマラヤへ涙の登山 ほか
1988初 テレビ朝日
ニュース番組の一コーナー。小野田氏による追悼登山の速報。
参考:
・朝日新聞

ヒマラヤに"別れの歌"が・・・ ルバング島より帰還した元陸軍少尉小野田寛郎と若き冒険家の熱い友情
1988春(54分) テレビ朝日
語り:佐藤慶
トレッキング経験もない小野田氏が、いきなりダウラギリ山群奥地まで足を運んだとは驚きだが、長年のサバイバル生活はやはり伊達ではない。それにしても、生前には全く無視されてきた鈴木の雪男探索活動が、没後になってようやく取り上げられるとは皮肉である。
参考:
・朝日新聞

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アニメ モンタナ・ジョーンズ (6) 雪男はチベットがお好き  
1994春  NHK総合
詳細不明。
参考:
・NHKアーカイブス
http://www.nhk.or.jp/archives/

日曜スペシャル 緊急スクープ!伝説の雪男を80日間大追跡!!  
1995初(85分) フジテレビ
制作:ユーコム
1994年夏、冒険家 故・鈴木紀夫氏の息子・大陸君を交えて、ダウラギリIV峰南麓コーナボン・コーラで雪男を捜索。シェルター、足跡、怪しげな二足歩行動物の姿を認める。(注)

ヒマラヤ最後のロマン 雪男の謎に挑む! 2003イエティ捜索隊の全記録
2003末(85分) テレビ朝日 
制作:TSP
1994年夏にダウラギリIV峰南麓コーナボン・コーラで雪男調査を行ったグループが、2003年夏9年ぶりに調査を行った。

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1990年代~2000年代は調査未了につき、不十分なリストになっています。

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こうして見ると、日本の雪男探索は1980年代末以降、鈴木紀夫の後追いが目立ちます。それは近年の角幡(2011)にまで引き継がれているのですが、「雪男探索は有望なコーナボン・コーラに収斂していった」というわけではなく、「雪男情報もネタ切れ」ということなのでしょう。

雪男に関する議論は、1950年代には異常な盛り上がりを見せました。それ以降ヒマラヤに入る人は格段に増えているのに、雪男情報は逆に激減しているありさま。それだけでも、雪男の存在を疑わせるのに充分なものでしょう。

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(注)

他サイトにこれと同一の文章がありますが、それはもともと私が提供した文章そのままです(そういったものは、そこには大量にありますが、明示は一切ありません)。よってここでもそのまま掲載します。

2014年4月7日月曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(7) 雪男関連TV番組一覧-その2

1960年代になると雪男探索は一段落(というより成果なし)。それに反して、創作ものでは雪男は大人気。雪男情報の普及は、おそらく出版物(少年マンガ誌や通俗週刊誌など)が担っていたと思われる。進展はないので50年代情報の焼き直しばかりだっただろうが。このあたりの経緯は、研究するとおもしろいものになるだろう。

【映画】 『ヒマラヤ無宿 心臓破りの野郎ども』  
1961夏(87分) ニュー東映
監督:小沢茂弘、原作・脚本:松浦健郎、出演:片岡千恵蔵、進藤英太郎、水谷良重、佐久間良子ほか。
『アマゾン無宿』(1961)に続く「片岡千恵蔵・無宿シリーズ」第2弾だが、設定・ストーリーに関連はない。
人類学者・土門(片岡)がヒマラヤから雪男を捕獲して帰国。この雪男をめぐり新聞記者や悪党たちと騒動があって、最終的にはヒマラヤの資源をめぐる悪事を暴く、というストーリー。オチは「雪男の正体は××だった(あえて伏せる)」というトホホなもの。
雪男ブームの影響が映画にも現れた。ヒマラヤ登山記録映画の人気も下火となり、ヒマラヤものはフィクションに取り入れられるようになる。しかしヒマラヤ現地ロケはまだまだ先のこと。
参考:
・日本映画データベース
http://www.jmdb.ne.jp/
・B級映画館
http://www.geocities.jp/bqaga/index.html

映画 ヒマラヤの雪男  
1962初 TBSテレビ
原題:Man Beast (1956, USA)
監督:Jerry Warren、脚本:B.Arthur Cassidy、撮影:Victor Fisher、出演:Rock Madison、Asa Maynor、George Skaffほか。
オリジナルは67分。DVD化されている。
ヒマラヤへ雪男探検に向かったまま音信不通となった兄ジムの捜索に出たコニー。登山家キャメロンの協力を得てエリクソン博士の探検隊に合流。怪しげなシェルパ・ヴァルガも加わり捜索を開始する。そこで雪男に遭遇し・・・。
典型的なB級冒険映画。雪男映画のオチはどうしていつもこうトホホな出来なのだろうか?雪山のシーンは他フィルムの流用、ヒマラヤ現地ロケなどは行っていない。
参考:
・毎日新聞
・allcinema ONLINE
http://www.allcinema.net/
・The Internet Movie Database
http://www.imdb.com/
・素敵なあなた SFシネ・クラシックス
http://homepage3.nifty.com/housei/SFcineclassics.htm

マンガ 早射ちマック ヒマラヤの雪男  
1964夏(30分) NETテレビ
原題:Quick Draw McGraw (1959~, USA)
制作:CBS-TV, USA
声:滝口順平ほか。
10分×3話のうちの1話。アメリカ製長寿西部劇アニメ。主人公マックは馬のガンマン。西部劇なのになぜ「ヒマラヤの雪男」が現れるのかは謎。
参考:
・毎日新聞

映画 0011ナポレオン・ソロ (62) ヒマラヤの雪男  
1967初(60分) 日本テレビ
原題:The Man from U.N.C.L.E. (1964~68, USA)
(72) The Abominable Snowman Affair (1966/12/09)
制作:NBC-TV, USA
出演:ロバート・ヴォーン、デヴィッド・マッカラムほか。
国際警察機構U.N.C.L.E.の捜査官ナポレオン・ソロとイリヤ・クリヤキンの活躍を描くスパイ・ドラマ・シリーズ。
このエピソードでは、ソロとイリヤはヒマラヤの国チュパト(モデルはチベット)で高位ラマの後継者争いに巻き込まれる。なお、雪男がどう関与するのかは不明。
参考:
・毎日新聞
・ウィキペディア 0011ナポレオン・ソロ
http://ja.wikipedia.org/wiki/0011%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AD
・スパイドラマ倶楽部・本館 0011ナポレオン・ソロ
http://spydrama.hp.infoseek.co.jp/page068.html
・TV.com
http://www.tv.com/

まんが タイガーマスク (37) 獣人ヒマラヤの雪男  
1970夏(30分) よみうりテレビ(日本テレビ系)
おなじみのプロレスアニメ。
全アジア王座決定戦に出場したタイガーマスクは、インド代表スノー・シンと対戦。試合の最中にスノー・シンの体じゅうに白い毛が伸び始め、まさに雪男の姿に変貌。彼はヒマラヤの雪山でミスター・クエスチョンに拾われ育てられたのだが、正体は明らかではない。最後はタイガーマスクに敗れる。
参考:
・毎日新聞

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それにしても、1960年代は創作ものばかりですなあ。