2016年6月30日木曜日

ンガッパ・イェシェ・ドルジェ・リンポチェの悪霊祓い(6)カルマ・チャクメーのシェードゥル儀軌-その2

まず、司祭は護法尊や守護尊を観想・招来し、助力を請います。そして諸尊に儀具やリンガの説明をします。

このへんの記述はかなり簡略化されていますが、CDの方を参考にすると、かなり長い時間をかけて行われるはずです。

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リンガ、チャンブ、小石を袋に入れきつく縛ります。助手が並べてあった武器を身につけ、この袋を地面に叩きつけます。

司祭は忿怒尊の使いを観想し、武器でシェーを脅し、逃げても無駄であることをシェーに告げ、袋に入るよう諭します。

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そして、袋の中身を三角形の箱ホムクンに落とします。シェーが見事袋に入っていたなら、その時には板はちゃんとした方向で落ちます。シェーに憑かれている故人の性別によって、

・男-倒立して落ちる=捕らえられている
・女-正立して落ちる=捕らえられている

と判断されます。正しい方向で落ちた板だけをホムクンに残し、他の中身は袋に戻され、東南西北に向けて儀式が繰り返されます。

なお、ホムクンは三方が刃物で縁取られ、袋の中身をホムクンに出した際にシェーが逃げられないようになっています。

四方で繰り返してもまだ板が残る場合には、シェーが部屋のどこかに隠れている、と判断され、助手は袋を床に叩きつけながら部屋中を巡り、同じく儀式を続けます。

すべての板がホムクンに収まると、シェーが捕らえられたと判断され、次の手順に移ります。

板はシェーが捕らわれているかの指標となるだけで、捕らわれたシェーはリンガに宿り袋の中に居続けるようです。

ここで板が九枚あることがよくわかりません。祓う対象であるシェーとは、悪霊となってしまった故人ではなく、その人を悪霊とならしめた死神一族九人、ということのような気がします。

二人の男が袋を引っ張りっこしたり、また床に叩きつけたりします。

ちょっと疑問に思うのは、リンガが生地で作られている場合は、叩きつけている間に壊れないものだろうか?するとやっぱり紙に描くリンガの方が一般的なのだろうか?

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司祭は、獣面の四カンドマ གདོང་ཆེན་བཞི་ gdong chen bzhiを観想します。招来したカンドマに四方を守護していただき、次の儀式の最中にシェーが四方へ逃げないようにするためです。

次はドゥー・ラム・チェー འབྲོས་ལམ་བཅད་ 'bros lam bcad 逃路切断の儀式。男たちが武器で袋を打つ真似をし、袋の中のシェーを脅します。

そして司祭はシェーに対し、すでに逃げる道がないことを諭します。四方はカンドマが守護しており、早朝から夜中までいずれの時刻も司祭の化身である鳥獣が見張っており、いかなる方向、いかなる時刻にも逃げ出すことが出来ないことを告げます。

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次はダル བསྒྲལ་ bsgral 処刑。司祭は手に小刀と鎌を、助手はその他の武器を持ち、悪霊となった死者の死因に応じた処刑方法を告げます。

・溺死-毒の大波
・他殺-剣の雨
・矢が当たって死亡-毒の投げ縄
など。

武器をホムクンに戻し、司祭はリンガをプルバで貫きます。四肢を切り取り、四方のカンドマに捧げます(これは紙よりも生地で作ったリンガのよう)。これでシェーの魂は神々の懐に入り、浄化されたことになります。

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司祭は悪霊となった故人のラ བླ་ bla魂を、シェーから取り戻したことになります。故人の魂を供養し、シェーの被害にあった人々のお祓いも施します。

これでシェードゥルの儀式は終了です。

記述はありませんが、招来したカンドマにお帰りいただく儀式も当然執り行われるものと思われます。

2016年6月25日土曜日

ンガッパ・イェシェ・ドルジェ・リンポチェの悪霊祓い(5)カルマ・チャクメーのシェードゥル儀軌-その1

上記CD解説よりもシェードゥルの儀軌が細かく記述されているのは、

・Namkhai Norbu (1995) DRUNG, DEU AND BON : NARRATIONS, SYMBOLIC LANGUAGES AND THE BON TRADITION IN ANCIENT TIBET. xx+327pp. Library of Tibetan Works and Archives, Dharamsala.

です。その中の

Chapter VII The Shen of Existence : The Dur Rites for the Dead. pp.87-102.
iv The Rites of Vanquishment of the Shed. pp.97-102

がそれになります。

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「テクパ・グ ཐེག་པ་དགུ theg pa dgu 九方便(ボンの悟りに至る九つの乗)」というボン教教義分類では四番目に当たる「シーシェン・テクパ སྲིད་གཤེན་ཐེག་པ་ srid gshen theg pa 存在の乗」に属する儀式になると思われますが、

・David Snellgrove(ed./tr.) (1980) THE NINE WAYS OF BON : EXCERPTS FROM GZI-BRJID. vi+312pp.+pls. Prajna Press, Boulder (Colorado).
←Original : (1967) Oxford University Press, London.

の中では、シェーについて軽く触れてあるだけで、シェードゥルの儀式は見当たりませんでした。

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DRUNG, DEU AND BONで紹介されているシェードゥルは、

・ཀརྨ་ཆགས་མེད་རཱ་ག་ཨ་སྱ། karma chags med rA ga a sya/(1613-78) (17C後半?) གཅོད་ཀྱི་གཤེད་འདུར་གདུག་པ་ཚར་གཅོད། gcod kyi gshed 'dur gdug pa tshar gcod/(断の儀式の一環としての悪霊払い、邪霊の調伏)

によるものだといいます。

カルマ・チャクメーは仏教ニンマパ/カギュパのテルトン/ンガッパですから、これはもともとニンマパ由来の経典・儀式ということになります。

ボン教とニンマパでは、共通した思想や儀軌が数多く見られます。どちらかが真似したというよりも、ボン教/ニンマパの区別なく共有されつつ発展してきたもの、と考えるべきかもしれません。

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では、このカルマ・チャクメーのシェードゥルの儀軌を見て行きましょう。CD解説の儀軌とはほぼ同じですが、より詳しい内容が記述されており、理解が深まるはずです。

まずトルマを供えます。そして三角形の箱 ཧོམ་ཁུང་ hom khungを用意。ホムクンは刃物で縁取られます。

石でかまどを作り平鍋を乗せます。鍋の中にはシェーを捉える武器(ナイフ、革紐、袋、鎌、弓、斧)や羊の脚、ヤクの尾、芥子の種を置きます。

大麦粒を敷き詰めた盆に白小石・黒小石をそれぞれ21個、金剛橛 ཕུར་པ་ phur paを並べます。

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そこにシェーを形どる肖像 ལིང་ག ling gaを紙に描くか粉もの(小麦粉かツァンパであろう)の生地で形作ります。シェードルの対象となる人や特殊な死因によりその頭を変えます。

・男-鹿
・女-黒豚
・子供-鼠
・殺害された者-赤猿
・餓死した者-ヤツガシラ(鳥の一種)
・溺死した者-水鳥
・自殺した者-ゾ མཛོ་ mdzo オスのゾ
など

そしてその周りには呪文を書きます。リンガが出来上がると、盆を火にかざし浄化します。

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次に九枚の板 བྱང་བུ་ byang buを用意します。これもシェードゥルの対象となる人の性別などによって材質を変えます。

・男-ブナ/メギ/イトスギ
・女-柳
・子供-ツァルブ ཚར་བུ་ tshar bu(低灌木の一種)

そしてその板に血で呪文を書きます。

紙にシェーとなった人の名前と「ニ ནྲི་ nri」という字を書きます。これはその人の人生を象徴するもの。

これでシェードゥルの儀式は準備完了。

2016年6月22日水曜日

ンガッパ・イェシェ・ドルジェ・リンポチェの悪霊祓い(4)Tucci先生によるシェードゥルの記述

前述の

・Giuseppe Tucci, Geoffrey Samuels(tr.) (1988) The Religion of Tibet. xii+340pp. University of California Press, Berkeley.

には、伝染病が蔓延した際にはチューパ གཅོད་པ་ gcod pa=ンガッパがシェードゥルの儀式を執り行う、とあります。

残念ながら、シェードゥルの実際については記述がありませんが、伝染病をもたらす原因をシェーによるものと考え、これを撃退する儀式を執り行う、ということでしょう。

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伝染病時のチューパの役割として他にあげられているのは、

・伝染病で死亡した遺体を墓場まで運搬する(チューパは感染しないと信じられている)

・メシャク མེ་ཞགས་ me zhags (火の投げ縄)という儀式を執り行う。呪文を唱えつつ、ダマルー、カンリンを奏でながら踊る。最後に黒い穀物や黒胡麻など(伝染病をもたらす悪霊を象徴しているものと思われる)を練り込んだツァンパを思いっきり焚き火に投げ込む。この時に燃え上がる炎や飛び散る火の粉が、人々の頭上に振りかかると、伝染病にかからないと信じられています。これが伝染病退散の儀式。

先程のイェシェ・ドルジェ師の火の儀式と関連がありそうです。火が魔除けや浄めの働きをするわけで、ゾロアスター教やバラモン教/ヒンドゥ教Agni अग्नि(火の神)信仰に起源を求めることができるかもしれません。

2016年6月17日金曜日

ンガッパ・イェシェ・ドルジェ・リンポチェの悪霊祓い(3)THE RAINMAKERでのシェードゥル記述

イェシェ・ドルジェ・リンポチェの伝記である THE RAINMAKER には、このシェードゥルの儀式は描かれてはいません。しかし「別のシェードゥル」(と言っていいのか?)は、2つのエピソードで記述されています。

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ひとつは、ロダク ལྷོ་བྲག lho bragのプーマ・ユムツォ པུ་མ་གཡུ་མཚོ་ pu ma g-yu mtsho)での隠遁修行を終え、ラサへ向かう途中、ロカ ལྷོ་ཁ་ lho khaのツェタン རྩེ་ཐང་ rtse thangのある家にしばらく投宿していた際の出来事。

同じ家に投宿していた女性が亡くなったのだが、その遺体は足を浮かせ、今にも起き上がろうとしていた。gshedにとり憑かれたのである。地元の僧は恐ろしくて逃げてしまい、イェシェ・ドルジェ師がシェードゥルの儀式を執り行うことに。

Voodooでいうところのzombieの状態ですが、チベットではこれをロラン རོ་ལངས་ ro langs(死体が起き上がる)と呼びます。

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儀式が始まると遺体は暴れ始め、師を投げ飛ばそうとまでする有り様。師はまさに必死にgshedに対し、遺体から去るよう唱え続けます。

遺体は体のあちこちから血を吹き出し、周囲には強烈な悪臭がたち込めます。儀式を見守っていた家人たちも家から逃げ出し、師と遺体を残して外から施錠してしまう有様。

師が戸を叩いて叫ぶとようやく解錠。逃げていた僧も戻り、師を手伝い、ようやく遺体の暴れは収まりました。

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次はこの遺体をチャトル བྱ་གཏོར་ bya gtor(鳥葬)に付さなければならなりません。ドゥルトゥー དུར་འཁྲོད་ dur 'khrod(鳥葬場)に遺体を運び解体。遺体の肉で団子を作り、集まったハゲタカ བྱ་རྒོད་ bya rgodに食べさせようとするが、ハゲタカたちはこの肉団子を全く食べようとしません。

師は儀式に誤りがあると見て、浄めの儀式など、いろいろな儀式を繰り返しますが、それでもハゲタカたちは食べようとしません。困った師は最後の手段として、この肉団子を自分で食べてみせると、ハゲタカたちもようやく肉団子を食べ始めた、といいます。

なんともおぞましいエピソードですが、無粋なことを言えば、実際は死後硬直で遺体が動いているように見えたのかもしれません。「暴れた」云々は、記憶の中で印象が誇張されているか、話を膨らましたか・・・。

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もうひとつは、DharamshalaのTibetan Children's Village(TCV)に居を構えていた頃の出来事。

何人もの子供たちに養育資金を提供していた男性が亡くなりました。その死後、その男性が道を歩いていたり、自転車に乗る姿が目撃され始めます。人々は様々な儀式を執り行いましたが、目撃例は後を絶たず、ついにイェシェ・ドルジェ・リンポチェに依頼が持ち込まれます。

師はしばらく瞑想修行にこもった上で、火の儀式を執り行いました。その結果、幽霊の目撃例はなくなりました。

また、亡くなった少女が幽霊として現れ、家の中で悪さをするので、こちらもイェシェ・ドルジェ師が儀式を執り行い、解決したそうです。

これらをシェードゥルと言ってよいのかわかりませんが、おそらくCDのシェードゥルとは隣接する内容ですから、死者がgshedに捉えられ成仏せず、あるいはその死者自身がgshedとなり、幽霊として現れているという認識で、似たような儀式を執り行ったと思われます。

2016年6月15日水曜日

ンガッパ・イェシェ・ドルジェ・リンポチェの悪霊祓い(2)CDのシェードゥル儀軌

儀式の手順をCD解説に従って紹介しましょう。

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最初に諸尊への供養。

次にイェシェ・ドルジェ師のイダム ཡི་དམ་ yi dam(守護尊)であるカンドマ・ナクモ མཁའ་འགྲོ་མ་ནག་མོ་ mkha' 'gro ma nag moをはじめとする五カンドマを招来。師とカンドマ・ナクモは同化し、悪霊祓いに当たります。それ以外のカンドマには四方に鎮座していただき、逃げようとするゲク(悪霊)に備えていただきます。

師は木片にゲクの名を書き、対象者の髪の毛とともに包み、一度三角形の箱 ཧོམ་ཁུང་ hom khungに入れ、さらにそれらを取り出して羊皮の袋に入れます。

助手が踊りながらその袋で対象者を打ち、ゲクに袋の中の木片に入るよう諭します。

師もゲクに対し、「水・火・空気に逃げても、東西南北に逃げても、待ち受けるカンドマに捉えられるぞ。ならばこの木片に入るのが安全だ」と諭します。

木片を短剣で取り出し、大釜の湯に入れて煮ます。木片にゲクが入るまでこの過程が繰り返されます。

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木片にゲクが入ったことを確認したら、その木片は粉々に砕かれます。これで患者からゲクが取り除かれたことになります。

次にチョルテンの前に砕いた木片を供えます。ゲクをやさしく諭し、天界に再生し、再び害をなすことがないよう供養するのです。ゲクはチョルテンの頂上から天界へと送り出されます。

そして木片は燃やされ儀式は終了です。最後に師はダライ・ラマ法王(注)と導師であるキャブジェ・ドゥジョム・リンポチェ སྐྱབས་རྗེ་བདུད་འཇོམས་རིན་པོ་ཆེ་འཇིགས་བྲལ་ཡེ་ཤེས་རྡོ་རྗེ་ skyabs rje bdud 'joms rin po che 'jigs bral ye shes rdo rjeへの感謝の辞を述べ、すべての儀式が終了となります。

解説では省略されているようですが、招来したカンドマにお帰りいただく儀式も、おそらく執り行われているものと思われます。














CDライナーノーツのンガッパ・イェシェ・ドルジェ・リンポチェ

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細かい点は別としても、世界各地に見られる悪霊祓い、邪気祓い、魔除けと共通する要素が見られます。対象者を叩いて悪霊を追い出そうとするのは、世界各地に共通。

形代を使って悪霊を対象者から引き離すところなどは、特に中国や日本の悪霊祓いに似ています。実際、これらは互いに関係があるでしょう。

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が、仏教の尊格であるカンドマの力を借りる点、悪霊を最終的に滅ぼしてしまうのではなく、天界に再生させる点が、仏教儀礼の一環としての特徴となっています。

カンドマを招来し自分と合一させるプロセスは、生起次第の儀礼にもなっている、というか、カンドマ供養の一環として悪霊祓いが位置づけられているとも言えます。

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(注)@2016/6/16

ニンマパ僧による、それも悪霊祓いの儀式にダライ・ラマ法王のお名前が出てくるのを奇異に感じる人がいるかもしれないが、お二方の間に深い信頼関係があることは、

2016年1月25日月曜日 ヒマーチャル小出し劇場(30) ンガッパ・イェシェ・ドルジェ・リンポチェとジルノン・カギェリン・ゴンパ

や、師の伝記

・Masha Woolf & Karen Blanc (1994) THE RAINMAKER : THE STORY OF VENERABLE NGAGPA YESHE DORJE RINPOCHE. xxii+106pp. Sigo Press, Boston.

を読んでいただければ、ある程度理解できると思う。

Tibetan Children's Village(TCV)での、師の困窮生活に手を差し伸べ、勇気づけ、チベット政府・宗教文化省に働きかけてZilnon Kagyeling Gompaの建立を推進したのは、法王なのだ。















1987年10月7日、Zilnon Kagyeling Gompa開山式でのグル・リンポチェの儀式に臨むダライ・ラマ法王(Woolf & Blanc (1994) p.65)

何度も書いているが、ダライ・ラマ法王の、ゲルクパの総帥でありながらも、宗派も宗教の違いも問わず、ニンマパにもボン教にもイスラム教にも等しく敬意を払う姿勢は、本当に素晴らしい。まさに菩薩であります。

2016年6月10日金曜日

ンガッパ・イェシェ・ドルジェ・リンポチェの悪霊祓い(1)ゲクとシェー

2016年1月28日木曜日 ンガッパ・イェシェ・ドルジェ・リンポチェ補足

で紹介した

The Venerable Yeshe Dorje Rinpoche / TIBETAN BUDDHISM SHEDUR : A GHOST EXORCISM RITUAL(チベット仏教音楽4 悪魔祓いの秘呪) [Nonesuch(ワーナーミュージックジャパン)]
Recorded by David Lewiston
1977/04, Dharamsala, Himachal Predesh, India














を手に入れました。

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世界中で録音された民族音楽コレクションNonesuch Explorer Seriesの一作。この中のチベット仏教音楽シリーズは、すべてDavid Lewistonが録音。

この記録は、インドHimachal Pradesh州Dharamsalaで録音されたンガッパ・イェシェ・ドルジェ・リンポチェ སྔགས་པ་ཡེ་ཤེས་རྡོ་རྗེ་རིན་པོ་ཆེ་ sngags pa ye shes rdo rje rin po cheによるシェードゥル གཤེད་འདུར་ gshed 'dur(悪霊祓い)の儀式を約45分にまとめたもの。本来は丸一日かかるらしい。

映像なしで音だけ聴いてもそれほど面白いものではないが、一聴の価値はあるだろう。生々しいカンリン རྐང་གླིང་ rkang gling(人骨笛)の音などはなかなか聞けない。

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日本語解説の大半は英語版解説の翻訳。草野妙子氏は音楽研究家なので、チベット仏教に関する解説はみな、チベット仏教学者Glen H. Mullin先生による英語版を翻訳したものです。

gshed 'durを辞書でひくと、「gshedの調伏」とあります。ではgshedとは何か?

གཤེད་ gshed

1. 敵、競争相手
2. 大体の場所、方向、どこかの場所、そこら辺
3. 週のうちの厄日
4. 障碍(しょうげ=仏教修行の妨げとなるもの)
5. 死者に取り憑く悪霊

གཤེད་མ་ gshed ma

1. 処刑人、殺人者
2. 死神
3. 仇討ちの神
4. 人非人

このCDでは「悪霊、死神」という意味と考えてよいでしょう。

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CD解説では、この儀式はゲク(geg)を祓うものとも紹介されています。今度は「ゲク」を調べましょう。

ゲクには複数の綴りがあります。

གེགས་ gegs=གགས་ gags

1. 障害物、障壁、妨害、遮断/中断をもたらすもの
2. 厄、不幸の元
3. 障碍(修行の邪魔になるもの)

བགེགས་ bgegs

1. 魔物、悪霊
2. 障害物、障壁
3. 障碍(修行の邪魔になるもの)

どちらも似た意味ですが、自然に生じる「厄」に対しては「gegs」を、厄災をもたらす原因に人格を与えて「悪霊」に対しては「bgegs」を用いる、という印象があります。

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他に名詞としては'gag (pa)があり、やはりおおむね「障害物」の意味になります。

また、動詞としては、他動詞'gegs pa(否定する、妨げる、批判する)、自動詞'gag(s) pa(消滅する、存在しなくなる、行き詰まる、拘束される)などがあり、おおむね障害、邪魔の意味はどれも共通していますね。

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CDの解説では「ゲク」について、

1. 内面的なゲク:精神の迷い、精神の異常、妄想
2. 隠れたゲク:神経管をふさぎ、精神の錯乱をもたらすもの
3. 外的なゲク:幽霊のようなもの、取り憑く死霊

と区分しています。1と2は「gegs」、3を「bgegs」に当てはめることができるでしょう。

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このCDで対象となるゲクはもちろんbgegs=死霊ということになります。gshedとbgegsはどういういう違いがあるのでしょう。

gshedについてはあまり資料がないのですが、

・Giuseppe Tucci, Geoffrey Samuels(tr.) (1988) The Religion of Tibet. xii+340pp. University of California Press, Berkeley.

に一つ記述がありました。これによると、gshedは「死者の成仏を妨げ、その縁者に対しても害をもたらす存在」とされます。これを祓う儀式がgshed 'durになります。

CDの例では、「死んだ身内の者の悪霊にとりつかれているために、肺結核に病んでいると考えている1人のチベット人のために1977年4月に行われた悪霊払いの儀式の録音である」とありますから、まさにgshed 'durです。

bgegsの一種としてgshedがいると考えてよいでしょう。

2016年6月7日火曜日

代々木の魔窟 東豊書店 健在なり!

約10年ぶりに「代々木の魔窟」こと東豊書店に行ってきました。

東豊書店は代々木にある中文書店。東方書店ではないよ、お間違えないよう。

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代々木駅西口を出てすぐ。駅前の古ぼけたビルが代々木会館。

これは古いビルで、萩原健一+水谷豊+岸田今日子(故人)+岸田森(故人)のTVドラマ「傷だらけの天使」(1974-75)のペントハウスがあった(今もある?)場所です。

20年位前から取り壊しの噂があり、テナントは次々退去。いまや残っているのは路面の立ち食い寿司屋と3階の東豊書店のみ。かれこれ20年近くほぼ廃墟状態なんだが、なぜか一向に取り壊しにならない。

「傷天」マニア、あるいは廃墟マニアが、内部や噂の屋上に侵入を試みているのも相変わらず。

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その3階に残るテナントが東豊書店。ここは東京でも屈指の「魔窟」として有名。なにをかくそう2chでここを「代々木の魔窟」と命名したのは私なのだ。

入ってすぐに本の壁に圧倒されます。2m位の高さの本棚に本がぎっしりつめ込まれ、本棚の上にも天井までぎっしりと本が積み上げられている。一度崩れてきてひどい目にあった。

通路も本が積まれ、荷物があると通路を通れない。通路自体も幅1mもないので、下の段の本を見るだけでも一苦労。上を見上げると、天井まで積まれた本の圧迫感が強烈。閉所恐怖症には耐えられないだろう。

入り口右手の奥地ともなると、本棚には三重に本が詰め込まれ、「掘り出す」作業が必要となる。その辺では地理書で面白いのを見つけたなあ。まさに「掘り出し物」。

・周希武・編著, 呉均・校釋 (1986.3) 『玉樹調査記』(西北史地資料叢書). 215pp. 青海人民出版社, 西寧.

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棚に入っている本はギューギューにつめ込まれているので、なかなか取り出せない。一度取り出すと、棚に戻せないこともあるので注意。

しかし棚の本はまだ良い方で、積まれた本になるともはや取り出す気にもならない。押そうが引こうが、びくともしない。本がこんなに重いとは・・・(知ってたけど)。

高さ3mに積まれた本の下側に埋設されている本を取り出すには、おやじさんに頼んでたっぷり5分は覚悟。それで取り出した本が3000円だったりすると、冷や汗が・・・。

こんだけ苦労させて、買わずに帰れますか?ええ、こないだも結局買いましたよ。

・石碩 (2001.2) 『藏族族源与藏東古文明』(西藏文明研究系列). 3+314pp. 四川人民出版社, 成都.

珍しい本なので買ってしまったが、読んでちょっとがっかり。あああ・・・。

これならもう少しお金を足して『漢藏史集』でも買ったほうが良かったか・・・。いやいや、よそだともっと安いんだな、最近の本は。

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ここを知ったのは1990年代後半とかなり遅いのだが、1980年代の古い本が多かった(今も不良在庫として大量にあるが)。

1980年代の中国の本は印刷も装丁も悪いが、ものすごく安かった。それでチベット関係の重要な中文書を、たくさんここで買った。ここは、その時代の古い本が狙い目です。

ある時、

・蘇晋仁+簫練子・校証 (1981.12) 『冊府元亀 吐蕃史料校證』. 6+4+394pp. 四川民族出版社, 成都.

が必要になった。

その頃、東豊書店には1年くらい行っていなかったのだが、「そういえば、あそこの入口から三列目通路左側、奥から2つ目の棚、下から2段目、左から3分の1くらいの所で見たな」と思って行ったら、その通りの場所にあった。

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実は、その辺に長年あった『吐蕃史』、『藏族史料集(一)~(三)』、『通鑑吐蕃史料』などをごっそり買ったのは私だ。しかし、上記の『冊府元亀 吐蕃史料校證』だけは買いそびれて置いてきたのだった。

これは今やなかなか手に入らないし、ほんとに役に立ってるし、買ってよかったと思ってる。

『藏族史料集(四)』を買わなかったのはなぜかと言うと、なかったから(笑)。それはついこないだ半年ぶりに行った本郷の琳琅閣で、100円でようやく入手したからご心配なく(誰も心配してないが・・・)。

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チベット関係の古い中文書は、さっき言った場所に今もいくらか残ってる。いくつか残っていた掘り出し物を紹介しておくと、

・祝啓源 (1988.8) 『唃厮囉 宋代藏族政権』(西北歴史叢書). 3+3+327pp. 青海人民出版社,西寧.

青唐王国に関する研究書では最重要書。これも今やなかなか手に入らない。それに安いぞ!急げ。これは棚にある。

その上を見上げると、私の大好きな

・青海省社会科学院藏学研究所・編, 陳慶英・主編 (1991.6) 『中国藏族部落』. 14+5+651pp. 中国藏学出版社, 北京.

が2冊も埋設されているではないか。取り出す気になった人だけゲット可能。かなりの難行になると思うが・・・。

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入口付近の2mほどの山には5・6冊チベット関係本が埋設されている。ただし、これらは比較的新しい本なので高い。要注意。

帳場の裏手、天井近くにも2列に渡りチベット関係書が埋もれているので、苦労したい人はどうぞ(私は探索を断念した、首痛いし)。

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もちろん中国史関係もたくさんあるし、実はここは漢方医学本の宝庫なのだ。特に台湾方面のもの。

おやじさんは台湾出身の方。年はいくつか知らない。こないだ10年ぶりにお会いしたのだが、全然印象が変わっていない。謎。

そうそう、奥さんにもこないだ初めてお会いした。本に埋もれての店番は嫌らしく、外で本を読んでおられたな。

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しかしここは行くたびに「大丈夫か?」と心配になる。他に入居テナントがいないのをいいことに、階段にもますます本が増殖していたし、今後どうなるんだろう?

前に「ここは取り壊しされないんですか?」と訊いたら、「だいじょぶだいじょぶ。このビルはネ、権利関係がややこしくなってるから、当分だいじょぶよ」。これが15年位前。ホントだった。

「この店、誰か継いでくれる人がいたら、譲ってあげるんだけどねえ」と聞いたのが10年前。それから何も変わっていない、いやはや。

2011.3.11の時はどうなったか、というのは恐ろしくて訊けませんでした。

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物好きな人は夏に行ってほしい。熱とカビ臭さと本の圧迫感との我慢比べになるから。おやじさんがランニング姿で迎えてくれます。

魔窟 東豊書店 健在なり!

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(追記)@2016/06/14

ちょっと気になって、Twitterで「東豊書店」と検索してみたら、なんかやたら濃い情報が続々。みんな大好きなんだね、東豊書店。

おやじさん87歳だって。見えないなあ。積まれた本延々どかすのも「自分でやりますから」と言ったのに、ずんずん一人で作業できちゃうし。すごいね。

2011.3.11以降数ヶ月間閉店していた、との情報あり。やっぱりか~。

みんな冷やかしに行くだけじゃなくて、買ってね。

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(追記2)@2016/06/14

こないだお会いしたのは奥さんかと思っていたが、もしかすると娘さん???。おやじさんより大分若い気がしたが・・・。もう、ホント時間も年も、ナニがなんだかわからなくなる、あの魔窟は。

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(追記3)@2016/09/22

この続報を

2016年9月21日水曜日 代々木の魔窟 東豊書店 続報

に書きました。こちらもどうぞ。

2016年6月5日日曜日

「ブータン展」を見てきました

もひとつ展覧会のお話。

「ブータン 幸せに生きるためのヒント」展. 2016/05/21~07/18. 上野の森美術館, 東京.



を見に行ってきました。まだまだいたぞ、修学旅行生(笑)。

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今回の展示の特徴は、織物・衣類関係が多いこと多いこと。1階はほとんどこれらで埋め尽くされている。織物ファンは必見ですよ。

ブータンの正装ゴ བགོ bgoとキラ དཀྱིས་རས་ dkyis rasの着用法の映像が面白い。何度も見てしまいましたよ。

なお、bgoは、チベット語では動詞「着る」の意味。dkyis rasは、「dkyis」の意味がわからない。もしかすると「kyir ras=丸い布(体にぐるりと巻きつける布)」なのかも。

あと「skyid ras(喜びの布=晴着)」なんていうつづりも思い浮かぶ。本当のところを知っている人は教えてください。

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2階は仏教関係(仏像/仏画)。18世紀以降のものが多く、それ以前の古いものは少ない。

ブータンでは、仏教は吐蕃時代から伝わっているが、本格化するのはシャブドゥン・ンガワン・ナムギャル ཞབས་དྲུང་ངག་དབང་རྣམ་རྒྱལ་ zhabs drung ngag dbang rnam rgyal(1594-1651)がチベットからやってきて、ドゥクパを広めてから(17世紀)。比較的遅いのだ。

それでも、展示されているタンカ ཐང་ཁ་ thang khaは見事なものが多い。ガラスで仕切られてもいないので、図像を間近に見ることが出来、お得です。

仏像とタンカが並べて展示してあるのもいい。図像学の勉強にもなります。

11世紀のカダム・チョルテン དཀའ་དམས་མཆོད་རྟེན་ dka' dams mchod rtenが美しかった。これはカシミール産かもしれない。

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グル・リンポチェ གུ་རུ་རིན་པོ་ཆེ་ gu ru rin po che(Padmasambhava पद्मसम्भव)に調伏された女神コンツェ・デモ=コンツン・デモ ཀོང་བཙུན་དེ་མོ་ kong btsun de moの像も面白い。これはもともと仏教の尊格ではありません。
http://www.sankei.com/life/photos/160526/lif1605260009-p2.html

ブータンの土着女神と思っている人が多いかもしれないが、この女神はその名の通り、中央チベット南東部コンポ ཀོང་པོ་ kong poの守護女神である(注)。

ニンティ ཉིང་ཁྲི་ nying khri(林芝)にあるデモ碑文 དེ་མོས་རྡོ་རིང་ de mo sa rdo ringで有名な場所「デモ དེ་མོ་ de mo」の名がついている。おそらく、そこが古代王国コン・ユル ཀོང་ཡུལ་ kong yulの中心であり、女神の在所でもあったに違いない。

しかしこの像が7~8世紀のもの、というのは本当だろうか?グル・リンポチェによる調伏譚が「8世紀」という設定であっても、像もその時代とは限らない。

仏像とはスタイルが全く異なるので、形式から時代を推察することはできない。確かに素朴な作りではあるのだが・・・。

(注)

そのデモ碑文には、「ディグム・ツェンポ དྲི་གུམ་བཙན་པོ་ dri gum btsan poの二子のうち、兄ニャキ ཉ་ཁྱི་ nya khyiがコン・カルポイ・ジェ རྐོང་ཀར་པོའི་རྗེ་ rkong kar po'i rje(コンポ王)となり、弟シャキ ཤ་ཁྱི་ sha khyiがラ・ツェンポ ལྷ་བཙན་པོ་ lha btsan po(ヤルルン王)となった。コン・カルポはクラ・デモ སྐུ་བླ་དེ་མོ་ sku bla de moを娶った」とある。

このクラ・デモとコンツン・デモは同じである可能性が高い。

してみると、コンポ王家は土地の守護女神コンツン・デモ=クラ・デモの子孫を称し、地元の尊厳を集めていたとみられる。あるいは、コンポ王家には代々コンツン・デモ=クラ・デモと形式的に婚姻を結ぶ儀式があった、と推察することもできよう。

余談だが、私はコンポ王が本家で、ヤルルン王(吐蕃王)の方が分家だったのではないか、とみている。後に立場は逆転してしまうが。

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コンポとブータンの関係を示すものが、もうひとつありました。1階に展示してあった貫頭衣シンカ 。このスタイルの衣類は、チベット・コンポに見られる。

シンカは བཞིན་ཁ་ bzhin kha=顔の口(丸首)であろうか。

展示してあった貫頭衣がどの地方のものか説明はなかったが、おそらく

2014年4月23日水曜日 「ブロクパ」とはどういう意味か?(3)

で紹介した、ブータン東部タシガン県のブロクパ འབྲོག་པ་ 'brog paの衣類に違いない。

さっきのコンツン・デモ像も、コンポからブータン東部を経て持ち込まれたのかもしれません。

しかし、ちょろっと展覧会を見に行っただけでも、こんなにおもしろい話に展開できるんだなあ、と、ちょっと感動。またなんか展覧会に行こう。

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ブータン女性というと、昔は皆おかっぱかショートカット。あれはどういう理由なのか、いまだにわからない。長い黒髪に高い価値を置くチベット文化圏にしては、珍しい習俗だった。

しかし、最近の映像を見ると、ロングヘアの女性がずいぶんと増えた気がする。これはチベット文化の影響というよりも、インド文化の影響だろう。

それに、映像のモデルになるような女性ともなると、ツケマ・バリバリ。王妃ジェツン・ペマ・ワンチュク རྗེ་བཙུན་པདྨ་དབང་ཕྱུག rje btsun padma dbang phyugも正装ではツケマをつけているように見えるがどうか(マスカラか?)。

素朴を売りにしてきたブータンも、こういうところから近代化が急激に進むのかもしれない。

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参考:

・王堯・編著 (1982.10) 『吐蕃金石録』. 14+3+206pp.+pls. 文物出版社, 北京.
・René de Nebesky-Wojkowitz (1996) ORACLES AND DEMONS OF TIBET : THE CULT AND ICONOGRAPHY OF THE TIBETAN PROTECTIVE DEITIES. xvi+666pp.+pls. Book Faith India, Delhi.
← Original : (1956) Mouton, Hague.

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(追記)@2016/06/05

出口に大きなマニ車 མ་ཎི་འཁོར་ལོ་ ma Ni 'khor loがあったので回してきたが、とにかくクソ重い。

普通あの大きさのマニ車は回しやすいように取っ手がついているものだが、それもない。抵抗が大きくすぐに止まってしまうし、つまらん。

そもそもアトラクションなので、中に経典など入っていないだろうし、功徳もないのはわかってはいましたが、楽しい気持ちにも全くなりませんでした。

あれはもっとクルクルと惰性で回っていてほしい。それで行き掛けにちょろっと触る程度で回していくのが良い。

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(追記2)@2016/07/27

・脇田道子 (2011) 民族衣装のポリティクス インド、アルナーチャル・プラデーシュのモンパの事例から. 日本文化人類学会研究大会発表要旨集, vol.2011, p.50.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasca/2011/0/2011_0_50/_pdf

という論文(学会発表要旨)を見つけました。

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インドのArunachal Pradesh州Tawang རྟ་ཝང་ rta wangのモンパ མོན་པ་ mon paの衣装に焦点を当て、ブータン東部のブロクパ འབྲོག་པ་ 'brog paやチベットのコンポ ཀོང་པོ་ kong poとの関連を探ったもの。

Tawangのモンパの衣装は、シンカをはじめ、ブータンのブロクパのものと一緒なのだそうだ。となると、一見コンポ→Tawangのモンパ→ブータンのブロクパという伝播ルートを想定したくなる。

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ところが、論者の主張は、モンパがブロクパから影響を受けたという結論。衝撃ですね。下(南)から上(北)への影響というのは、あまり見られない文化圏だけに。

また、モンパの衣装とは別に「チベットのコンポ地方のものと同じ
で、一般的なモンパのものとはまったく異なっている」衣装を着る人々もいるとのことで、この辺がこの短い論考ではよくわからなかった。

貫頭衣シンカはもともとモンパの文化にあったらしいので、そのくくりでは「コンポ→Tawangのモンパ→ブータンのブロクパ」という伝播ルートはまだ適用可能な気もする。

論者が注目しているのは、衣装の素材や織り方などもっと細かい部分のような感じで、その点ではブロクパ→モンパという影響関係が想定できるらしい。

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いずれにしても、1ページでは短すぎるし、写真や図もないので、まとまった論考を読まなきゃいかんなあ。

調べたら、脇田先生のこの辺の論考はこれだけある。

(01)脇田道子 (2014) インド,アルナーチャル・プラデーシュのモンパに見る民族表象と伝統の変化の動態. 慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要 社会学・心理学・教育学 人間と社会の探究, no.78, pp.166-168.
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN0006957X-00000078-0166.pdf?file_id=96052
(02) 脇田道子 (2013) インド北東部国境地帯のツーリズム アルナーチャル・プラデーシュ州の現状と課題. 慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要 社会学・心理学・教育学 人間と社会の探究, no.75,  pp.119-148.
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN0006957X-00000075-0119.pdf?file_id=73924
(03) 脇田道子 (2012) ブータンの近代化と仏塔盗掘. アリーナ, no.14, pp.218-222.
(04) 脇田道子 (2012) 辺境開発とツーリズムに関する文化人類学的研究 インド・ブータン国境地帯の事例から. 慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要 社会学・心理学・教育学 人間と社会の探究, no.74, pp.109-112.
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN0006957X-00000074-0109.pdf?file_id=69234
(05) 脇田道子 (2011) 民族衣装のポリティクス インド、アルナーチャル・プラデーシュのモンパの事例から. 日本文化人類学会研究大会発表要旨集, vol.2011, p.50.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasca/2011/0/2011_0_50/_pdf
(06) 脇田道子 (2011) インド,アルナーチャル・プラデーシュのモンパに見る民族表象と伝統の変化の動態. 慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要 社会学・心理学・教育学 人間と社会の探究, no.72, pp.160-162.
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN0006957X-00000072-0160.pdf?file_id=69172
(07) 脇田道子 (2010) 民族の表象と伝統の変化の動態 インド,アルナーチャル・プラデーシュのモンパを中心に. 慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要, no.70, pp.168-171.
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN0006957X-00000070-0168.pdf?file_id=69088
(08) 脇田道子 (2010) ブータン東部におけるツーリズム導入に関する一考察 メラとサクテンの事例から. 慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要, no.70, pp.31-53.
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN0006957X-00000070-0031.pdf?file_id=69058
(09) 脇田道子 (2009) 表象としての民族衣装 インド,アルナーチャル・プラデーシュのモンパの事例から. 慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要, no.68, pp.35-58.
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN0006957X-00000068-0035.pdf?file_id=40135
(10) 脇田道子 (2007) インドとの国境山岳地帯、東ブータン・メラ、サクテンの遊牧民. インド考古研究, no.28, pp.117-124.
(11) 脇田道子 (2004) アルナーチャル・プラデーシュのモンパとその服飾. インド考古研究, no.25, pp.139-142.


民族衣装について、一番まとまってるのは(09)のようだな。よし。どれもさっき見つけたばかりなので、ちゃんと読んだら、また続報を。

2016年6月4日土曜日

「黄金のアフガニスタン」展に行ってきました

これもだいぶ前なんですが、

「特別展 黄金のアフガニスタン 守りぬかれたシルクロードの秘宝」展. 2016/04/12~06/19. 東京国立博物館表慶館, 東京.


(ポスターは以下のサイトからお借りしました)
・e+イベント・アート・シネマ情報 > アート > 特別展 「黄金のアフガニスタン―守りぬかれたシルクロードの秘宝―」2016年4月12日(火)~6月19日(日)東京国立博物館 表慶館にて開催!
http://sp.eplus.jp/event/2015/12/2016412619-2400.html

を見てきました。上野公園は修学旅行の中学生でいっぱいでしたね(5月上旬)。

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展示品は、アフガン内戦時代の1989年にアフガニスタン国立博物館から密かに運び出され、大統領府にある中央銀行地下金庫に保管されていた秘宝たちです。

内戦時代からTaliban時代にかけて、砲撃でボロボロになり、内部もあらかた略奪と破壊を受けた国立博物館の無残な姿を覚えている人も多いことでしょう。
http://cdn.historyextra.com/sites/default/files/imagecache/800px_530px/gallery/Untitled-1.jpg

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Taliban支配時代も誰も口を割らず、2004年ついに陽の目を見たのが今回の展示品です。

時代はGreco Bactria時代(BC256~BC85、インド・グリークとしてはca.AD10まで続く)(Ay Khanum)、とKushan朝時代(1世紀前半~3世紀中)(Tillya Tepe/Bagram)が中心。

墓から発掘された装飾品と副葬品が大半になります。それも黄金が多い。特に女性は食い入るように見入っていたのが印象的。

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装飾品はSkythaiを思わせる意匠のものが多く、中央アジアの遊牧文化を色濃く感じさせるものでした。移動を常とする遊牧民は財産をあまり多く持てないので、財産は黄金の装飾品として身に付けることになります。

ハート型の装飾品が多いのが印象的。かといって、それがハートを表すものとは限らず、葉っぱの意匠かもしれないのですが。

海の模型は面白かったなあ。銅製の現物は当然ボロボロに錆びているので、復元品があるのもよかった。

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今回の展示は仏教色がほとんどないのも特徴。まあGandhara仏教美術はこれまでさんざん見ているので、こういう展覧会もまたよい。

インド~アフガンあたりの展覧会というと、年代的にはいつもKushan朝止まりなのが不満。昨年の「インドのイム」展では、珍しくPala朝(8世紀後半~12世紀後半)時代の仏像・仏画が多かったのがうれしかった。

アフガニスタンでは、Ephtal時代(ca.450~564)のものはあまりないにしても、その後のKhingal朝時代(6世紀後半~7世紀中)、Kabul Turk Shah時代(7世紀中~9世紀中)、Hindu Shah時代(9世紀中~1014)の遺物(仏教/ヒンドゥ教/よくわかっていない土着の宗教)は結構あるはずだ。その辺もいつか見たい。