2016年12月30日金曜日

blogを3つに分けました

最近何のblogかわからなくなってるので、テーマで3つに分けました。

(1) stod phyogs トゥーチョク སྟོད་ཕྱོགས།
このblog。今までどおり、チベット・ヒマラヤの話題が中心。中国史、モンゴル、中央アジア、インドなどの話題もこちらで。

(2) KETOLA KA MAKHETLO 10000 (kkm10k)
新しいblog。マンガの話題を中心に、アート、本、科学などの話題。その他、雑多なものはなんでもここに突っ込みます。

(3) 音盤テルトン
新しいblog。音楽(Jazzが多い)の話題はこちらで。

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(1)からそれぞれのテーマの投稿を(2)、(3)に移してありますが、(1)の投稿もしばらく残しておきます(よって当分重複します)。

また、リンクやレイアウトにまだ不備がありますが、それらはおいおい修正していきます。

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さてさて、同時に3つも運営できるのでしょうか?まあやってみましょう。

2016年12月27日火曜日

中公新書『周』と『浙江大『左伝』真偽考』

最近読んだ中国古代史ものを2冊紹介。

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・佐藤信哉 (2016.9) 『周 理想化された古代王朝』(中公新書2396). 237pp. 中央公論新社, 東京.














中国古代の周王朝、特に西周時代にスポットを当てたもの。編集側の依頼は「春秋・戦国時代の周、すなわち東周を中心に」というものだったらしいが、著者が自分の専門である西周中心で押し切ってしまったそうな。正しいぞ!

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西周時代の記述といえば、武王克殷の後は、周公の話があって、その後一気に厲王と「共和の政」に進み、そして幽王憤死~東遷だけで終わることが多い。

この本では、西周時代の政治・礼制・文化を出土史料(主に金文)によって丹念に再構築していく。

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文献史料による西周史は、『尚書(書経)』、『史記』などをベースにした研究がこれまで散々行われており、この本でもそれがベースになっていることは言うまでもないが、出土資料を重視した研究でまとまったものというのは、

・白川静 (1971.4) 『金文の世界 殷周社会史』(東洋文庫184). 11+301pp. 平凡社, 東京.

以降少なかった。

特に最近は、中国国内では考古学的発見が相次ぎ、歴史を塗り替えるような発見が毎年のように続いている。白川(1971)以降の出土史料(主に青銅器銘文)を振り返りながら、西周史を見直していく作業は重要なのだ。

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このblogでは触れる機会があまりありませんが、私は中国史好きでもあります。

特に系図好きですね。中国の三皇五帝から清までの全王朝の系図+匈奴から清(女真)までの北アジア王朝の系図をExcelで作ってあります(もちろん、いろんな文献からの切り貼りで、独自のものではありませんが)。

で、この『周』はその系図の補足にすごく役に立ちました。

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BC770年、幽王憤死による西周滅亡後、一般にはその子・宜臼が成周(現・洛陽)に擁立され(平王)、以後は東周と呼ばれる、とされます。

ところが、平王とは別に、携王・余臣という王が並行して存在していたとする史料(『春秋左氏伝』、『竹書紀年』など)が存在しています。この携王が幽王とどういう関係にあるのかが、(私には)今までわかりませんでした。

清華大学・蔵『戦国竹簡』のうちの「繋年」=通称『清華簡・繋年』によると、携王は幽王の弟なのだそうです。これですっきりしたー。

『精華簡・繋年』は2008年に北京・清華大学が外国から買い戻して2010年から公開し始めた新しい出土史料なので、私のような素人にはまだまだ情報が回ってきません。

この中公新書『周』のような形で、その最新研究成果を教えてもらうとすごく助かる。

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この時代は、今はもちろんのこと、大昔にも周王室よりも春秋・戦国諸国の歴史のほうが人気があり、東周の動向はあまり取り上げられなくなる。もっとも、『史記』を読んでも、東周王室はスケールの小さい内輪もめがあるばかりで全然面白くないのは確か。

東周末の西周君、東周君あたりについても、金文を使った考察があっておもしろかった。この辺も自分にはよくわからなかったんですよ。だいぶ頭の中を整理できた。

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春秋・戦国の大諸侯については、『史記』や『春秋左氏伝』をベースにさんざん研究され、創作ものも数多くありおなじみなのだが、この本では周王室の周辺に仕えていた諸侯に関する情報が多いのもありがたい。

周公の系譜、召公の系譜、虢公、毛公、曽侯(南宮括の子孫)などですね。一連とまではいかない飛び飛びの系譜ながら、だいぶイメージつかめるようになった。西周時代の有力諸侯、申侯などについてはもっと知りたいなあ。

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本書では触れられなかったが、同著者による『穆天子伝』についての論考も読んでみたいなあ。

私が新書に求めるのは、こういうレベルの話題なのだが、最近は週刊誌記事の水増しレベルの新書が多く辟易していたところだった。

しかしこういう本の刊行を見ると、最近中公新書は昔の輝きを取り戻しつつあるよう。期待しよう。

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お次は

・浅野裕一+小沢賢二 (2013.12) 『浙江大『左伝』真偽考』. 292pp. 汲古書院, 東京.














高い本なので自分で買ったものではありません。図書館で借りたもの。グラビアには竹簡の写真が大量に掲載。これは持っていたいなあ。

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BC340年頃とされる楚の竹簡(著者たちは「斉・魯の竹簡」と推察)に関する論考。これは、もともと骨董市場から現れた出土文物。中国・浙江大学が2009年に購入者から寄贈を受け、整理と研究を進めてきた。

その中に『春秋左氏伝』と一致する内容が含まれており、その部分を『浙江大・左伝』と呼ぶ。

しかし、その真偽については定まっておらず議論が続いている。中国学界では、偽作説が優勢らしい。

『春秋左氏伝』(略称『左伝』)は春秋時代の正しい史実を多く含んではいるものの、同時代史料ではなく、前漢末・劉歆が左丘明に仮託して編纂したもの、というこちらも偽作説が優勢。

しかし『浙江大・左伝』が本物であるならば、戦国時代には『左伝』がすでに成立していたことになり、これは歴史を塗り替える発見となる。

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浅野、小沢の両先生は、偽作説が定着しつつある中、あえて真作説を唱え、困難な作業を実施した。その結果がこの本。

その是非について論評する能力は私にはない。特に偽作説を読んでいないので、本論考で、その偽作説に対して充分反論・論破できているのか判断がつけられない。

しかしネット上で調べても、この本はほとんど話題になっていないのですね。真作説、偽作説の当否はさておき、まずもっと議論されるべきと思う。

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大量に混入している「得」、「之」、「得之」といった衍字・衍文(文中に混入した余計な文字・文章)の解釈がやはり鍵でしょう。

ここでは、先生が弟子に読み聞かせながら書写させた時に入り込んだ、調子を整える字(「えーと」みたいなもの)と解釈されているが、証拠があるわけでなく、さらなる議論が必要。

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小沢先生の科斗文字についての論考はおもしろいし、ためになった。中国史や文学を見ていると、あちこちにこの「科斗文字」という言葉が出てくるのだが、その実態はよくわからなかったが、これでだいぶイメージつかめるようになった。

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上記書の本論からははずれるが、浅野+小沢(2013) p.155に中国文字学の大家・白川静の研究について重要な話が書いてあった。

これは他人の文章の引用という形で出てくるのだが、その原版がこれ↓

・東京大学大学院人文社会系研究科・文学部 > 教員紹介 > 教員エッセイ「私の選択」 > 2009年 > 大西克也(中国語中国文学)/文字の縁
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/teacher/essay/2009/3.html

そこで私は再び金文研究者としての白川静と向き合うことになった。そのようなある夜、研究会の後の飲み屋でふと感じた息苦しさが、白川文字学との訣別のきっかけとなった。以前あれほど魅力的に感じられた字源に関する言説が、実は甲骨文や金文のコンテクストに立脚点を持たず、信じるか信じないかというレベルで人に受け入れを迫るものであることに思い至ったのである。

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私も一時期白川文字学に入れ込んで、著作を大量に読んだものだが、ある時すっぱりと覚めた。それは漢字の最も基本的な部首「口」に関する疑問からであった。

白川説では、これはいわゆる「くち」ではなく、「サイ」というもの(が多い)だという。「祝詞」が入れられた箱だというのだが・・・。

祝詞?

ということは、漢字の最も基本的な部首ができる前に「祝詞を書いた文字」がすでにあったことになる。これはおかしい。

それにこの「サイ」、その材質が何か?(たぶん暗に木製と言いたいのだと思うが)、出土物として出てこないのはなぜか?、後代の宗教・文化にはどういう形で伝わっているのか?、あるいは伝わっていないのならば、それはなぜか?

などなど、一度疑問を持ってしまうと、芋づる式にどんどん疑問が出てくる。他の字源についても、解釈が独立してあるだけで、根拠薄弱なものが大半を占めることにもどんどん気づいてしまう。

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その白川説によって再構築された「呪術一色の王朝・殷」を、もう少し現実味のある姿にしたい、ということで研究を進めているのが、落合淳思先生。中公新書『周』も落合先生の手引で、執筆・発刊に至ったものだそうな。

落合先生の

・落合淳思 (2007.8) 『甲骨文字の読み方』(講談社現代新書1905). 235pp. 講談社, 東京.
・落合淳思 (2008.7) 『甲骨文字に歴史をよむ』(ちくま新書732). 228pp. 筑摩書房, 東京.
・落合淳思 (2015.1) 『殷 中国史最古の王朝』(中公新書2303). iii+256pp. 中央公論新社, 東京.

などの一連の著作(他に高い専門書ももちろんある)もずいぶん参考になった。

白川文字学については、別にちゃんと書かないとなあ。

2016年12月20日火曜日

Mustang王Jigme Dorje Palbar Bista逝去

MustangあるいはLo Mangthang གློ་བོ་སྨོན་ཐང་ glo bo smon thangの王様(ギャルポ རྒྱལ་པོ་ rgyal po)だったJigme Dorje Palbar Bista འཇིགས་མེད་རྡོ་རྗེ་དཔལ་འབར་ जिग्मे दोर्जेपलवर विष्टさん(1930-2016)が2016年12月16日Kathmanduで亡くなられたそうです。享年86歳。

・myRepublica > Kamal Pariyar/Last king of Mustang dies at 86.  December 17, 2016 00:00 AM
http://www.myrepublica.com/news/11273

ご冥福をお祈りいたします。

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王制は2008年に完全に廃止され、昨年からは王も健康上の理由でKathmanduに移り、入院していたようです。

知っている人は少ないかもしれませんが、Mustangを訪れた研究者やトレッカーを温かく迎えてくれることで有名な方でした。また一人、チベット文化圏のビッグネームが逝ってしまわれたなあ。

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私はMustangには行ったことはありませんが、カン・ティセ གངས་་ཏི་སེ་ gangs ti seからヤルツァンポ ཡར་ཀླུང་གཙང་པོ་ yar klung gtsang po沿いの道で東へ向かう途中、ドンバ འབྲོང་པ་ 'brong pa 仲巴付近からDhaulagiri方面を眺め、「あの先がMustangかあ」と思っただけでした。

しかし、チベット側からだと、峠らしい峠もなくホントちょっと下るだけでMustangなんですよね。国境なんて馬鹿らしいものと思わざるを得ませんでした。

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あまり知られていませんが、Mustang王家は大元をたどると、出自はシャンシュン ཞང་ཞུང་ zhang zhungになります。吐蕃時代に活躍したキュンポ ཁྱུང་པོ་ khyung po氏の末裔です。

キュンポ氏は、中央チベットに出てツァン gtsangに領地を得たキュンポ・プンセー・スツェ ཁྱུང་པོ་སྤུང་སད་ཟུ་ཙེ་ khyung po spung sad zu tseの系統(これがいわゆる小羊同/楊童)、シャンシュンに残り、644年頃に滅ぼされたリク・ミリャ ལིག་མྱི་རྷྱ་ lig myi rhya王朝の後を受けて、吐蕃属国のシャンシュン王となった系統(ラサンジェ王朝 ར་སང་རྗེ་ ra sang rje)があります。後者は、その後677年に結局吐蕃に滅ぼされて、カム ཁམས་ khams西部まで逃げテンチェン སྟེང་ཆེན་ steng chen 丁青にボン教王国を築きました。

一方、ツァンのキュンポ氏は、吐蕃時代には吐蕃家臣としてちょこちょこ名前が出てきます。

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吐蕃崩壊後、ツァンのキュンポ氏はツァン各地に散らばっていきます。その中から出てきたのが、キュンポ・ネンジョル ཁྱུང་པོ་རྣལ་འབྱོར་ khyung po rnal 'byor(1086-1139)とミラレーパ མི་ལ་རས་པ་ mi la ras pa(1052-1135)の二大高僧。Mustang王家はその遠い親戚に当たるわけですね。

吐蕃崩壊後、中央チベットから西遷した吐蕃王家末裔の一つがグンタン王国 གུང་ཐང་ gung thang 貢塘王国。その領地は、現在のキーロン སྐྱིད་གྲོང་ skyid grong 吉隆~ゾンカ རྫོང་དགའ་ rdzong dga' 宗嘎を中心とし、最盛期にはツァン西部を広く支配しました。

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その家臣として活躍したのがキュンポ氏の一支系。この家系から出たチューキョン・ブム ཆོས་སྐྱོང་འབུམ་ chos skyong 'bumは、1400年頃現在のMustangに代官として派遣されます。15世紀になるとグンタン王国は衰え始め、これに乗じてチューキョン・ブムの子アメ・ペル・サンポ・ギャル ཨ་མ་དཔལ་བཟང་པོ་རྒྱལ་ a ma dpal bzang po rgyalが1440年に独立。これがMustang王国の始まりです。

最盛期にはプラン སྤུ་ཧྲེང་ spu hreng普蘭に攻め入るなど、ツァン西部(ンガリー・メー མངའ་རིས་སྨད་ mnga' ris smad ンガリー下手と呼ばれることもある)方面の大勢力として君臨してきたこの王国も、19世紀になるとネパールGorkha王朝の属国となりました。その後も王国は細々と続いてきましたが、それも2008年にはついに終焉を迎えました。創建から実に600年近く。

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Jigme Dorje Palbar王の子息Jigme Sinki Palbar Bista འཇིགས་མེད་སེང་གེ་དཔལ་འབར་ 'jigs med seng ge dpal 'barが名目上王位を継がれるのでしょうが、旧王国の経営は一層難しくなりそうな気がします。

もしかすると、チベット側ルートが開放されれば、ツーリスト(大半は中国人になりそうだが)は倍増するかもしれない。でもなあ、それだと確実に文化汚染が進みそうだしなあ・・・。

そんな心配もしてしまう訃報でした。改めてJigme Dorje Palbar王のご冥福をお祈りいたします。

2016年12月14日水曜日

ヒマーチャル小出し劇場(37) Kinnaur Lippa村

何度か登場しているMiddle Kinnaurの村Lippa。ガイドブック等には一切登場しませんが、実に美しい村です。

例によってヒマーチャル・ガイドブック没原稿から。

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Lippa लिप्पा <2640m>

Rekong PeoからSutlej河上流へ約30km進むとTaiti Gad河口。そこからTaiti Gad沿いに北へ約7km。左岸の斜面に広がる大きな村。人口約1000人。フラット・ルーフの住宅が斜面を埋め尽くす様は壮観。











斜面の村だけに、通りは階段状に走っている。村のてっぺんにそびえているのがGanden Chokhor Gompa。土着神を祠る寺院は最下手に置かれている。

このように仏教寺院とヒンドゥ教(というより土着神)寺院が共存しているのは、日本の村に寺と神社が共存しているのにも似て、日本人には全く違和感がないのだが、欧米人にはよく理解できない風景かもしれない。

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◆Lippa Ganden Chokor Gompa དགའ་ལྡན་ཆོས་འཁོར་དགོན་པ་

村の最上部にそびえるチョモ・ゴンパ。ドゥクパ。チョモ(尼)は10名ほどいるが、その住居は集落内。通常は寺男が朝夕の世話をしているだけ。拝観料はお布施で。

創建年代は不明(せいぜい200年ほど前か?)だが、僧デーヴァラマとその子二代にわたり造営されたと伝えられる。

村を見渡す前庭に横長の棟が面しており、内部はドゥカンとチャムカン二つのお堂がマニ車回廊に囲まれている(お堂の説明は今回省略)。











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◆Tangtashu Mandir

村の下手にある土着神Tangtashuを祠った寺院。祠は二棟。どちらも、例によって入母屋造の屋根が美しい。Tangtashu神はJangi(जंगी འཇང་གྱིས་)のGyalmagyun神の弟といわれる。











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ところで、KinnaurにはKankani(རྐང་གཉིས་ rkang gnyis 「二本足」の意味)と呼ばれる「ゲートチョルテン」が多いのだが、Lippaの入り口には驚くべきKankaniがあります。











トラックもくぐれるKankaniです(笑)。見えないけど、屋根の下にはちゃんと小さいチョルテンがあります。

ここまで行くとやりすぎだよなあ。

2016年12月10日土曜日

『ロンチュン歌舞集』よりンガリーの民族衣装・装飾品

前回紹介した

・ཀརྨ་མཁས་གྲུབ་སྲིབ་སྐྱིད། karma mkhas grub srib skyid/ (1998) མངའ་རིས་རོང་ཆུང་ཁུལ་གྱི་ཐུན་མོང་མ་ཡིན་པའི་གནའ་སྲོལ་གླུ་གར་ཕྱོགས་བསྒྲིགས། mnga' ris rong chung khul gyi thun mong ma yin pa'i gna' srol glu gar phyogs bsgrigs/(A Collection of Ancient Songs of Ngari Rongchung/ンガリー・ロンチュン地方の比類なき伝統歌舞集). xxix+201pp. Karma Khedup, Dharamsala.

のカラー口絵から、ンガリー・ロンチュン地方の民族衣装や装飾品を紹介。

画像の下がキャプションの和訳

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歓迎の歌をお聞かせし、偉大なるダライ・ラマ法王14世猊下より、加持として最初の供物をいただいているお写真

高僧に、遠くで迎える歌(?)と歓迎の歌をお聞かせしているところ(撮影:Kim Yeshi)

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高僧に「幸福の絶頂」の歌をお聞かせしているところと思われる写真

十三天の踊り

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左右の山座の踊り

踊りを楽しんでいるところ

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ガルポン・センゲ・ングードゥプ(81歳)とその妻の歌い手タシ・ラゾム(85歳)、ツァパラン・シプキ・ドントゥー出身

歌い手ングードゥプ・サンモ(69歳)、シプキ周辺ゴンマ出身

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歌い手・故デキ・ドルマ、ツァパラン・シプキ・カンサル出身(撮影:Kim Yeshi)

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女性の装飾品

ペラクと耳隠し 花と一緒に身につける

銀製装飾品と珠

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銀製ブローチ

銀製の肩に達する長い耳飾り

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銀製飾り帯、お守り、ガウ、腕輪

(撮影:Kim Yeshi)

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これは、『ロンチュン歌舞集』の表1~背~表4をつないだもの。ギャワ・リンポチェ(ダライ・ラマ法王)をお迎えするところかな?

左手の女性たちは、KinnaurやKulluの帽子と似た帽子をかぶっていますね。こういうところでもやはり連続性が見られるわけです。

このタイプの帽子はプラン(སྤུ་ཧྲེང་ spu hreng 普蘭)にもあるのですが、おもしろいことにプランの人たちは、つばを下ろして後ろ前にかぶるという、変なかぶり方をします。それはまたいつか紹介しましょう。

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ところで上段の絵は、ツァパラン(རྩ་ཧྲང་ rtsa hrang 扎布譲、グゲ遺跡)の壁画なのですが、人々が一人おきに手をつないで踊っています。時代は15世紀。

驚くことに、実はこれも現役なのです。今も見られる場所はやっぱりKinnaur。










Pratap Studio, Rekong Peo提供

この踊りはKinnaurではKayangと呼ばれています。グゲ王国での名称は不明ですが、はじめてKayangを見た時は「あっ!グゲのアレだ!」とすぐわかって、どえらく感動しました。

ロンチュンでももちろん現役。上の図版のうち「踊りを楽しんでいるところ」で、一人おきに手をつないでいますね。ちゃんと本を読めば、ンガリーでの呼び名がわかるんじゃないかと思いますが、まだ見つけていません。すいません。

あと、写真はないけど、この踊りはSpitiでも見たことがあります。

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もう一つ、ンガリーの民族衣装の写真が出てきました。










これは、インドHimachal Pradesh州Mandi(मण्दी)県(注)Suja(सुजा)にある巨大僧院シェーラブリン・ゴンパ(ཤེས་རབ་གླིང་དགོན་པ་ shes rab gling dgon pa)のペルプン・シェーダ(དཔལ་སྤུངས་བཤད་གྲྭ dpal spungs bshad grwa)改築落成記念式典(2000年)の一幕。カルマ・カギュパ(ཀརྨ་བཀའ་བརྒྱུད་པ་ karma bka' brgyud pa)のタイ・スィトゥ・リンポチェ(ཏའི་སི་ཏུ་རིན་པོ་ཆེ་ ta'i si tu rin po che)の僧院です。

アトラクションとして、チベット舞台芸術研究所(Tibetan Institute of Performing Arts=TIPA)が出張して来て、歌や踊りを披露していました。それは大盛況。

その中にチョルカ・スム(ཆོལ་ཁ་གསུམ་ chol kha gsum チベット三州=ウー・ツァン+カム+アムド)の踊りがあったのですが、それを見て「あー、ンガリーはこの中に数えられていないんだなー」とちょっと寂しく思ったものでした。

ところが、その後にンガリーの踊りが単独で登場。うれしかったですね。

その出演者女性が羽織っているマントがロクパ(སློག་པ་ slog pa)。ンガリーのロクパはとてもカラフル。赤黄緑の三色がザックリと幾何学的に配置されたとてもモダンなデザインです。

彩りの少ないンガリーの土地でこのロクパに出会うと、とても楽しい気分になる。

しかしこのユニークな色使いとデザインはどこから来たのだろうか?チベットともインドとも異質な感じがする。

このロクパは『ロンチュン歌舞集』表紙の女性たちもはおっていますね。

(注) シェーラブリンの位置はぎりぎりMandi県内ですが、Kangra県境がすぐそこ。

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また、これとよく似たロクパはSpitiにもあります。














やはり緑が鮮やか。三角模様もあります。

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とまあ、あちこちから引っ張ってきて、ンガリーとその周辺の民族衣装などを見てきたわけですが、チベットの民族衣装でも、ンガリーやその周辺の民族衣装に関する研究は遅れています。

このエントリーで、西部チベット各地の民族衣装に興味を持つ人が増えることを期待します。

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(追記)@2016/12/11

「手つなぎ踊り」の壁画が描かれているのは、ツァパランのラカン・マルポと確認できました。ちょっと自信なかったんで書かないでおきましたけど。

「宣舞|玄舞」で検索すると、この踊りを取り上げた中国語サイトが、多数ひっかかってくることがわかりました。調べてみてください。

「宣/玄(xuan)」とはチベット語の何の音写か調べてみると、どうもཤོན་ shonの音写らしい。これだと「踊り」ということしか言っていないので、特にあの特殊な踊り方を表現するものではないですね。

ンガリーでも主に西部で確認されていることはわかりました。まさにロンチュン地方です。

もう少し調べてみましょう。

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(追記)@2016/12/11

Kinnaurで「手つなぎ踊り」をshonと呼んでいる例2つ。場所はどちらもLippaです。

・YouTube > tgnegikinnour/Kinnouri Shon Githang by Geshe Thupten Negi (2012/08/27 uploaded) 
https://www.youtube.com/watch?v=D7QKYEQE8z8

・YouTube > abhimanyu bhandari/kinnauri mela.........(2012/01/26 uploaded)
https://www.youtube.com/watch?v=yzJIyNjV3Bk

LippaはMiddle Kinnaurにありますから、「キナウル語(Hom-skad)が主/チベット語少し」くらいの地域です。ですから、Shon(Kayan)と両方使っています。

Shon Githangという表記がありますが、これは「ཤོན་གྱི་ཐང་ shon gyi thang」=「踊りの広場」という意味と思われます。

なんかこのエントリー、追記が果てしなく続きそうな予感・・・。

2016年12月5日月曜日

東京外国語大学図書館特別展示「旅するチベット語」

・東京外国語大学附属図書館・主催 「東京外国語大学附属図書館第17回特別展示 旅するチベット語 縁は異なもの文字は乗り物」. 東京外国語大学附属図書館2階ギャラリー, 府中, 2016/11/21-12/26.

を見てきました。

これはそのパンフレット














・星泉・選書+解説執筆 (2016.11) 『東京外国語大学附属図書館第17回特別展示 旅するチベット語 縁は異なもの文字は乗り物』. 16pp. 東京外国語大学附属図書館, 府中.
http://www.tufs.ac.jp/library/guide/shokai/tenji17.pdf

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ご覧のとおり、展示ケースわずか7つというささやかな展覧会ですが、内容は濃い。

図書館2階ロビーでの展示なので、図書館への入館手続きは不要。学外の人も自由に見ることができるので、近くまで来た方は是非どうぞ。

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展示内容タイトルをざっと紹介すると、

展示ケース1 : 記録の中のチベット(唐代、18世紀末)
展示ケース2 : ヨーロッパや日本からのまなざし(18世紀末~20世紀初)
展示ケース3 : 周辺の国々との関わりの中から生まれてきたもの(9世紀初、18世紀末、20世紀)
展示ケース4 :活版印刷との出会い、そして試練の時代(1950年代~60年代)
展示ケース5 : 文化復興の時代(1970年代後半~80年代)
展示ケース6 : 現代文学の幕開け(1970年代後半~2010年代)
展示ケース7 : 翻訳で広がる世界(2000年代~10年代)
おまけ : SERNYA 3冊のサンプル

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私の興味を引いたのはもちろん展示ケース1。









ここには

・馬掲+盛縄祖 (清1792) 『衛藏圖識』.

が展示されています。初版本なのか、どこかの時点で復刻されたものなのかはわかりませんが、とにかく貴重なもの。

なお、『衛藏圖識』の中身は、早稲田大学附属図書館のサイトでPDF版が公開されています。

・早稲田大学図書館 > コレクション・刊行物 > 古典籍総合データベース > 衛蔵図識 / [馬掲],[盛縄祖] [纂](as of 2016/12/04)
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru05/ru05_01515/

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パンフレット1ページ目の絵はここから取られています。面白いので公開されていた部分をちょっと訳してみましょう。

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ンガリー(མངའ་རིས་ mnga' ris 阿里)・ガルトク(གར་ཐོག gar thog 噶爾渡)部落のチベット人女性(番婦)の図

ンガリー(阿里)・ガルトク(噶爾渡)部落は、チベット西部にあり、ツァン地方(གཙང་ gtsang 後藏)タシルンポ(བཀྲ་ཤིས་ལྷུན་པོ་ bkra shis lhun po 札什倫布)、サンサン(བཟང་བཟང་ bzang bzang 三桑)と接する。ポラネー(ཕོ་ལྷ་ནས་ pho lha nas 頗羅鼐、1689-1747)の長子ギュルメー・ツェテン(འགྱུར་མེད་ཚེ་བརྟན་ 'gyur med tshe brtan 朱爾瑪特筞登、?-1750)がかつて駐屯していた場所である。

そこに住むチベット民の帽子の高さは一尺(約30cm)余り、帽子の縁は錦の類を使っている。幅広くはない。頂部は糸で縫い合わせてある(訳注:先が尖ったものになる)。

チベット女性の帽子は、前と後ろに玉すだれが垂れ下がり、(皇帝の冕冠の前後に垂れ下がる)旈(りゅう)のように、顔から頭を隠している。丸首で袖の大きい着物を着て、粗末なスカートを履いている。

役人に会う時でも帽子は取らず、右手で額より上を指し、「ཨཱོཾམཎིཧཱུྃ  オーム・マニ・フーム OMmaNihUM 唵嘛吽」と三度念ずるのみである。

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この女性の盛装、特に顔の前後に垂らした玉すだれがなんといっても面白いわけですが、実はこの装飾は今も現役なのです。

・ཀརྨ་མཁས་གྲུབ་སྲིབ་སྐྱིད། karma mkhas grub srib skyid/ (1998) མངའ་རིས་རོང་ཆུང་ཁུལ་གྱི་ཐུན་མོང་མ་ཡིན་པའི་གནའ་སྲོལ་གླུ་གར་ཕྱོགས་བསྒྲིགས། mnga' ris rong chung khul gyi thun mong ma yin pa'i gna' srol glu gar phyogs bsgrigs/(A Collection of Ancient Songs of Ngari Rongchung/ンガリー・ロンチュン地方の比類なき伝統歌舞集). xxix+201pp. Karma Khedup, Dharamsala.














表紙の女性の装飾がそれです。

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この本は、ンガリーのランチェン・カンバブ(གླང་ཆེན་ཁ་འབབ་ glang chen kha 'bab Sutelj川)流域最西端ロンチュン(རོང་ཆུང་ rong chung)地方の伝統歌舞を紹介したもの。ロンチュン地方からインドに亡命してきた人々による報告・記録になります。著者のカルマ・ケードゥプさんは、国境の町シプキ(སྲིབ་སྐྱིད་ srib skyid什布奇)出身らしく、名前のお尻に地名をつけていますね。

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『衛藏圖識』との違いは、ベレー帽みたいな帽子ではなく、Ladakhi女性のようにペラク(པེ་རག pe rag)をつけていること。この辺はLadakhからの影響と思われます。

ロンチュンを含む旧グゲ王国は17世紀にはLadakhに占領されていましたし、隣接しているSpiti、Upper Kinnaurも長らくLadakh領でした。

SpitiやUpper KinnaurのペラクはLadakhやZanskarで見られるよりもやや小ぶりです。ロンチュンのペラクも同様に小さめ。

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ロンチュンはインドHimachal Pradesh州Kinnaur県に接しています。Kinnaur県の最東端Spiti川流域Upper KinnaurはHangrang(ཧྲང་ཏྲང་ hrang trang)とも呼ばれ、文化・言語はロンチュンとはほとんど同じらしいです。このチベット文化は、さらに北へSpiti川沿いにSpiti(སྤྱི་ཏི་ spyi ti)へと連続しています。

Upper Kinnaurの女性装飾もロンチュンの装飾とそっくりです。














DK's Flash Photo Studio, Kaza提供

こちらでもペラクをつけていますね。

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ペラクではなく、『衛藏圖識』のようなベレー帽は、実はSutrej川をもう少し下ったMiddle Kinnaurに出てくるのです。ちょっと小規模ですが、もちろん玉すだれもあります。














Pratap Studio, Rekong Peo提供

これが『衛藏圖識』と一番似ていますね。

この顔の前の玉すだれ、Kinnaurでは「トノル」あるいは「ピラザ」と呼ばれています。「トノル」は「སྟོད་ནོར་ stod nor(頭部の宝物)」かも知れません。ベレー帽は「プレー・テパン」。

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少し離れてLahaulにも似たような装飾が見られます。










MS Kalpna Colour Lab, Keylong提供

こちらでは、この玉すだれに日月をつけてあり、「tarka」と呼ばれています。帽子はユ(གཡུ་ g-yu トルコ石)をたくさん縫いつけた帽子yutud(གཡུ་སྟོད་ g-yu stod)をかぶるのがユニーク。

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余談ですが、Lahaul西部Udaipurでは、Middle Kinnaurとよく似たベレー帽をかぶります。










Laxmi Art Studio, Udaipur提供

装飾は、他の地域と比べてちょっと地味かもしれませんが、耳を隠す装飾はやはり共通しています。

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一方、『衛藏圖識』における男性のとんがり帽子の絵は、パンフレットのp.3に出てきます。









星(2016)p.3

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こういったとんがり帽子は、西部チベット各地に出てくるのですが、ここではLadakhの例を紹介しておきましょう。もちろんSpitiやUpper Kinnaurにもあります。








Ladakh Sabuの祭り

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200年前の習俗が今もしっかり現役であることに感動するわけですが、現・中国領西チベットでは全く見ることができませんでした。残念。

お祭りにでも出くわせば、少しは見れたのかもしれませんが、民族衣装については、インド側の方が圧倒的に艶やかです。楽しい。

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最初に挙げた『ロンチュン歌舞集』ですが、買ってから十数年間、活用もせずに放ってあるので、少しは何とかしたい。

民族衣装の写真が結構あるので、その部分だけでもいずれ紹介しましょう。